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岩屋卓史(寝屋川石田)という男㊤

 11月初旬のある晩、大阪・北新地の「おにぎり竜」で食事した後だった。店を出たところで、岩屋君が切り出した。

 「自分、引退することにしました。12月30日に福岡に帰ろうと思っています」

 えっ何言ってんの。またいつもの、お決まりのやつかよ。「彼女できましたー」って冗談は何回も何回も聞いてきた。はいはい。またですか。そんなラリーを何回かしたけど、今日はいつものニヤケ顔に戻らない。

 あっ本当なんだ。この楽しかった時間も終わるのか。彼がプロボクサーとして戦う姿を見られなくなることより、楽しい仲間が引っ越してしまう寂しさのほうが強かった。

 33歳、フェザー級で戦績4勝5敗。大ざっぱに言えば無名のボクサーだったけど、私にとっては、また彼の周りにいる人たちにとっては、紛れもなく特別なボクサーだった。

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【写真説明】大阪・日本橋のラーメン店「友愛亭」で。左端は店主の中西さん。手前は元世界ランカーで店員(当時)の李明浩さん。奥は筆者。

偶然立ち会った初勝利

 新聞記者でたまにボクシング・マガジンにも書いている私は、2018年12月16日に試合会場で岩屋君に出会った。私は東京から転勤したばかり。その日は特別に目当ての選手がいたわけではなく、何となく情報収集のために大阪・エルシアターに足を運んだ。

 記者だが下手な写真も撮る。たとえばデビュー戦の選手がいれば、記念になるかなと思ってカメラを向け、試合後に声をかけて連絡先を交換し、データで渡すこともあった。

 その日、岩屋君はプロ3戦目で初勝利を挙げた。応援に来たジムの仲間たちが大騒ぎしていた。ああ、人望のある子なんだ、30歳で初勝利か、などと思いながら、レフェリーに手を挙げられる姿をカメラに収めた。

 全試合終了後、たまたま出入り口で「30歳で初勝利」の姿を見つけた。声をかけてみると、テンションが上がりまくったボクサーは長々と身の上話を展開した。

 「自分ですね、もともと福岡でボクシングしてたんですけど、石田会長のジムがプロ加盟したという記事を見てすぐ大阪に出てきて・・・」

 話の長さに面食らった。その後の予定もあって早く帰りたかったが、話がなかなか終わらない。しまいには通りかかったジム関係者まで紹介された。やっと解放されてLINEを交換した私は、天満橋駅へ逃げるように走って行った。

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【写真説明】岩屋君が初勝利を挙げた時の写真。エルシアターはリングのすぐ横に記者席があり、至近距離から撮った。 

試合1週間前のオファーを受けた男

 家に帰り、何枚か写真を送った。普通は、これでやり取りが終わる選手が多い。しかし、岩屋君との縁は長く続いた。

 しばらく存在を忘れていたが、2019年春、SNS上で彼はちょっとした話題になった。

 37歳の定年が迫る福島のボクサーがいて、定年前ラストマッチをする予定が、相手の棄権で中止に。急きょ、SNS上で新たな相手を探している…という話だった。試合まで1週間。それを受けたのが岩屋君だった。

 「エルシアターで長話してきた博多弁の子や!」と思い出した。試合はボクシングレイズの生配信で見た。岩屋君はそこで2勝目を挙げた。

 その年の冬には、偶然だが初めて食事をともにした。ボクサーが集まる店として有名な大阪・日本橋のラーメン店「友愛亭」の店主中西さんに誘われ、指定の店に行くと岩屋君もいた。岩屋君も友愛亭の常連だった。現役選手は岩屋君だけで、年長のボクシング関係者らの集まりだったが、誰も岩屋君の話を聞かず、好き勝手にしゃべっていた。岩屋君はニコニコとその話を聞いていた。

 その後、コロナで世の中が変わった。

 戦績を3勝3敗のタイに戻していた岩屋君は、2020年3月1日に試合が決まっていた。しかし、コロナのため直前で中止になった。ちなみに前年12月の試合も相手の棄権で前日に流れていた。私はこの頃にはLINEで個人的にやり取りするようになっていた。岩屋君は愚痴を言うこともなく、ジムが閉鎖された時期はフィリピン人トレーナーのジェリーと公園で練習を続けていた。

最初で最後の記事

 ちょうどその頃、ボクシング・マガジン編集部から「選手ファイル」という欄に記事を書きませんかと話をもらった。いつもは選手の指定があるが、その時は「人選はお任せします」とのことだった。すぐに岩屋君の顔が浮かんだ。

 記事で紹介されやすい若手のホープではないが、試合があってもなくても常に戦う準備をしている姿を描きたいと思った。試合1週間前にオファーを受けたことや、福岡から急に思い立って大阪に出てきてプロボクサーになったことなど、ストーリーもある。何より、戦績を1勝3敗から五分に戻したことが大きい。五分なら編集部に推薦しやすい。岩屋君が中学時代から毎月、ボクシング・マガジンを読んでいたことも知っていた。連絡して、次の日にはジムで取材することに決まった。

 岩屋君の気合はすごかった。大きな記事ではないかもしれないけど、ずっと読んできた雑誌に載る。後日聞いたところ、まずジム入りして練習もしていないのにシャワーを浴びたそうだ。髪形をバッチリ決めて、私が来るのを待ち構えていたという。それを見た仲間からは「今日、どこかにお出かけですか?」と言われたらしい。

 記事は20年5月号に載った。商品として世に出るものとしては、岩屋君を書いた最初で最後の記事になった。この頃はそこまで頻繁に連絡を取り合う仲でもなかったので、イチから経歴を聞いて書いた。今、書いたら、もっと面白く、もっと(本人にとって)恥ずかしい記事にする自信はあるが…。

 岩屋君はこの記事をコピーして、寝屋川で行きつけの銭湯や飲食店に貼りまくっていたそうだ。

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B級昇格、そして木村蓮太朗戦

 その年の7月25日、関西でボクシングが再開された。岩屋君は無観客の神戸市立中央体育館のリングに上がった。試合前にアップする姿を見かけたが、ちょっと声をかけにくような戦う男のオーラを醸し出していた。

 私はボクシングをかじったことがあり、記者としては過剰なほどのボクサーへのリスペクトを持っている。しかし、岩屋君には親しみやすさしか感じていなかった。そんな岩屋君が試合直前、ゾクッとするような空気を漂わせている。自粛期間中も地道に練習を続け、4回戦レベルなら「自信しかないです」と語るようになっていた。プロボクサーってすごいな、と改めて思った。

 試合は得意の「ドロドロの消耗戦」に持ち込んで判定勝ち。これでB級昇格。その直後に、とんでもない試合のオファーが舞い込んだ。

 「木村蓮太朗って知ってますか?」。電話で岩屋君はそう言った。まさかの名前だった。いつも岩屋君の話が長いので、私は半分聞き流すような感じで聞いているが、その名前は脳天に突き刺さるようだった。B級に上がった途端に、アマチュア3冠をひっさげてプロ入りした駿河男児ジムの木村蓮太朗からオファーがあり、受けたという。

 木村ほどのアマチュアエリートはB級からデビューする。コロナ前であれば、外国人選手を呼んで2勝して、プロのリングに慣らした上でA級戦線に上がっただろう。だが、今は外国人選手が呼べない。だからあっちこっちに電話して探しているが、木村の強さは鳴り響いているから簡単には決まらない。そこで岩屋君に話が来た。「勝てる可能性は1%かもしれないけど、チャンピオン候補と試合してみたい」と言った。

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【写真説明】寝屋川石田ジムの選手たちは毎週土曜日に「ウルトラワークス」と称し、合同で走り込む。

「踏み台」じゃない

 電話を切ってからいろいろと考えた。私もボクシング記者をしているから、勝つのが難しいのは分かっている。まず負けるだろうと思った。ただ、努力してB級に上がり、勇気を持ってこの試合を受けた岩屋君が、単なる踏み台として終わるのは嫌だと思った。

 試合はYoutubeで生配信される。試合を見てもらい、人の記憶に残ってほしいと思った。木村蓮太朗が主語の試合だけど、相手があって成り立つのが勝負だ。多くの人は「木村蓮太朗のプロ2戦目」という見方をするだろうけど、それに挑戦する選手の立場からも見てほしいと思った。

 世界戦など大きな試合は数々取材してきたが、今までにはなかった「伝えたい」という衝動が、私の中を駆け抜けた気がした。

 私は初めて動画を撮ることにした。twitterで流す2分20秒以内の短いもので、今見返すとクオリティは高くないが、この選手をどうにかして知ってほしいと思った。動画編集の基本は得意な人に教えてもらい、ナレーションなどできることは全部自分でやった。

 寝屋川石田ジムの選手たちは毎週土曜日の朝、淀川河川敷に集まって走り込む。8月下旬で、めちゃくちゃ暑い朝だった。2時間ほどの撮影で私も真っ黒になった。その後は試合まで、ほぼ毎日のように連絡を取り合った。スパーリングする相手のレベルも上がった。関西のホープ下町俊貴(グリーンツダ)とも拳を交え、興奮気味に報告してくれた。もともとはボクシングファンで「高山(勝成)さんとジムメイトになるなんて、いまだに夢かと思いますよー」と話していた。

(下に続く)

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