元日本王者・奥本貴之、11日に引退式 今後はトレーナーの道へ
2018年に関西でボクシング取材を始めた私が、最初に親しくなったボクサーの一人が奥本君だった。
初めて取材した日のことは忘れられない。
その年の暮れ、記事を寄稿していたボクシング・マガジンの編集者さんから「人物モノの新連載を始めたい」という電話があり、一発目を私が書かせてもらうことになった。
編集部からのリクエストは、いったん引退した後にカムバックし、WBO‐AP・Sフェザー級王者になった仲村正男君(渥美)だった。ただ、仲村君は進退に悩んでいた時期で、結局、引退することになった。
人選は白紙になり、編集者さんに「関西で他に書ける選手はいませんか?」と聞かれた。
私は日本ウエルター級王者の矢田良太君(グリーンツダ)の名前を挙げた。何試合か見ていたし、パフォーマンスも派手で、彼なら書けると思った。
だが、編集者さんは、同門のもう一人の日本王者、Sフライ級の奥本君のほうを提案してきた。矢田君は何度か記事になっており、奥本君のほうが露出が少なかったことも理由にあったようだ。
私は奥本君の試合も見ていたし、長渕剛の「青春」でリングインする姿は「渋いなぁ」「雰囲気があるなぁ」と思っていた。
ただ、ほとんど話したことはなく、良くも悪くも印象がなかった。
ジムの本石昌也会長にお願いして、大阪市東成区(現在は旭区)のジムに取材に行った。
ほぼ「初めまして」状態だった。
異例の「会長同伴」インタビュー
普通は、ジムに取材に行けば、会長が「じゃあ、お任せしますね」みたいに促し、あとは1対1でインタビューが始まるものだ。
この取材のことを、私がはっきりと覚えているのは、隣に本石会長が、ずーっと付き添っていたからだ。
今なら本石会長の気持ちが分かる。
奥本君は「オブラートに包むことを知らない」からだ。
良く言えば「正直な人間」。だが、取材者としては「そのまま書かれへんな」という話が多かった。奥本君が話すたびに、横から本石会長が補足し、通訳のような役目をやっていた。
1対1で話せたのは、練習に入ってからだった。
奥本君は人懐っこいところがあり、練習中のインターバルのたびに、ちょこちょこ話をしにきてくれた。こそこそっと寄ってきて、笑える話をして、また練習に戻っていく。
「可愛げがある」というのは、彼を取材した年上の記者たちが持つ共通の印象といえるだろう。
今でも、あの取材でよく2ページも書けたなと思う。インタビューでの無防備な発言を、一つひとつ、かみ砕いてつなぎ合わせ、記事を書き上げた。
できあがった雑誌を送ると、4月に防衛戦を控えていた奥本君から「減量でしんどい時、何回もこの記事を読んで頑張れています」とメッセージがあった。
奥本君は指名挑戦者のユータ松尾選手(ワールドスポーツ)を退け、2度目の防衛に成功する。
この試合後あたりから、たまに会ったり、LINEでやり取りをするなど、個人的な付き合いをするようになった。
義理人情の男
しばらくすると、本当に義理堅い人間であることにも気づいた。
奈良県大和高田市出身の奥本君は、幼少時から空手で鳴らし、中学2年のとき、お父さんにグリーンツダへ連れられてきた。
ジムは当時、大阪市西成区にあった。今では考えられないが、中学生でジムの寮に住み込み、どっぷりとプロボクシングの世界に浸っていった。
スパーリングでは世界王者と互角に渡り合い、関西のメディアには「天才少年」と騒がれた。
15歳になるとタイでプロデビューし、2戦目で元世界王者にTKO負けした。ジムのゴタゴタもあり、急に周りから人がいなくなった。
同世代が学生生活を楽しんでいる年頃に、大人の世界の見たくもないものを見た。
ジムでは6歳下の服部海斗さんと仲良くなった。中学時代はまだバイトもできず、いつも腹を空かせていた。そんなとき、毎晩のように服部家に招かれ、家族同然に食卓を囲んだ。その恩を、ずっと忘れないでいる。
服部さんは2015年2月24日、急性白血病のため17歳で亡くなった。
当時、服部さんの死はテレビ番組などでも報じられ、葬儀には多くのボクサーや関係者が集まった。
年月が流れ、服部さんのことが話題になることも少なくなった。
それが自然なことだし、人間はそうして少しずつ忘れていくものだ。
奥本君は試合の際、服部さんの遺影とともにリングインした。そして毎年、命日になると服部家を訪れ、仏壇の前で手を合わせてきた。
2021年の命日、私は服部家に同行した。
待ち合わせの場所に、奥本君はお供え物の饅頭(まんじゅう)を持ってやって来た。年に一度の儀式。しばらくの間、服部さんの遺影と無言の会話を交わしていた。いつもとは違う顔だった。
「僕が世界戦をしたら、カイのことを記事に書いて下さいね。みんなは忘れても、僕は忘れないんで」
いつもそんなふうに言っていた。
ラスト1年の苦闘と充実
サウスポーの奥本君は、フットワークを生かした高速のサイド攻撃で相手を翻弄(ほんろう)するのが持ち味だった。ややスロースターターで、試合中盤に流血してからエンジンがかかってくるところがあった。
2019年12月、4度目の防衛戦で中川健太選手(三迫)に敗れ、日本王座から陥落した。
さらに翌年の再起戦でも敗れ、一時は一桁まで上がった世界ランクも手放してしまう。
世界戦の夢は、完全に遠のいた。
連敗した後、大阪・北新地の「おにぎり竜」で食事をした。
さすがに元気はなかったが、「さんざん迷惑をかけてきた嫁さんが、『あんた、もう一回やれ』と言うんです」と打ち明けた。
ジムワーク以外の練習を全面的に見直すなどして、「最後だと思って、やれることは全部やりたい」とも言った。
2021年8月、大阪・枚方での興行のメインイベントで、奥本君は2年ぶりの勝利を飾った。
試合の数日後、一緒に大阪・難波でうなぎを食べた。
こんなふうに祝勝会ができるのも、あと何回かなと、ふと考えた。
一つ勝ち、次は東洋タイトルに挑戦できればという希望も膨らんでいた。
同年12月、奥本君は当時ノーランカーの飯村樹輝弥選手(角海老宝石)に敗れた。
元王者が、アマ出身のホープとはいえ、ランキング外の選手に敗れた意味は重い。
その2日後、奥本君から連絡があった。
「いつも力をありがとうございました。引退します」
2021年は、最後にもがき、あがいた1年だった。
奥本君はのちに、「ふらふらしていた自分がまじめに練習を頑張った1年でした」と振り返った。
引退後に見つけた「天職」
私はこれまで、何人ものボクサーの引退を見届けてきた。
今までで一番心配だったのが奥本君だ。
数多くのアルバイトをしてきたとはいえ、奥さんも子供もいる。
「おにぎり竜」で、スポーツ新聞社の先輩記者を交えて慰労会をした。
その先輩は「奥本は今まで勉強してこなかっただけで、やったらできるかもしれん。今から何か資格の勉強をしてみろよ」と言った。私は、それは一番ないかなぁと思った。それくらい方向性が定まっていなかった。
だが、心配する必要はなかった。
奥本君は、すぐにキックボクシングのジムのトレーナーの仕事を見つけてきた。ボクシングの元日本王者という立派な肩書きも生きたことだろう。
しばらくして、「教えるのは楽しいです。天職かもしれません」という報告があった。
今後は、トレーナーという道で、さらに別の進路を歩んでいく予定だ。
個人的な付き合いでいうと、奥本君がチャンピオンでも、そうじゃなくなっても、現役でも、引退しても、何も変わっていないと思う。
私はずっと、奥本君には「弟気質」があると思っていた。
中2でプロボクシングの世界に足を踏み入れ、大人たちの中で育ってきた。そこで天性の「可愛げ」を磨き上げたともいえよう。
これからは、ずっと年下の選手たちに教えていく立場になる。
目の前の選手を大切に、辛抱強く向き合ってほしい。
あの日、仏壇の前で、黙って両手を合わせていた横顔が浮かぶ。
きっと、面倒見のいい「伴走者」になるのではないか。
プロボクサーではなくなっても、奥本君の人生を応援している。
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