【週刊日記】できること、できないこと、できたこと# 7
オリンピックとマイナー競技
先週、社会に対して少し悪口を書いてみたら、みごとにアクセス数が伸びなかった。もちろん反省をしてる。悪口と社会に対して疑問を持つことは違う。非常に難しいところである。
今週も、オリンピックの話をまた書いてしまうのであるが、私も少しはテレビを見ている。特にカーリング女子の活躍は毎日楽しみであった。オリンピックの時に、特定の競技が注目されることは嬉しいことであるが、それが長続きされないことは、よくあることである。カーリングであっても、前回の4年前のオリンピックらメディアに取り上げられた機会は、やはり少ない。でも、選手たちはこの4年間も日本代表になろうとしのぎを削っている。どの競技の選手も同じことが言えるだろう。マイナー競技とカテゴリーするのは、どうかと思うが、競技人口が少ないスポーツに日が当たらないことはわりと多い。もちろん私もすべてを負えない部分もあるが、頑張っている人をいつも応援していきたいと、オリンピックの度に思うものである。今回も、カーリング以外にもこの競技に、こんなにも強い人がいたのかと思うことがよくあった。それだけ私も一つ一つの競技をよく知らないと言うことを実感するものだ。
マイノリティはいつでも存在する
マジョリティとマイノリティ、どの分野においても存在してしまうことは否めない。私も身体に障害を抱えてしまったせいでマイノリティの側になるっこともある。確かにマジョリティに押されてしまうことは少しは悔しく思う。しかしどこかで決めなければことは進まない。なぜ、マイノリティが存在してしまうのだろうか。私はこう考えている。この日本という国はとてもいい国だ。大多数が同じ異人種であり、大多数が同じ教育を受けている。つまり、日本という国で子供の頃を過ごすのであれば、ある程度同じ価値観で大人に向かって行ってると思う。しかし、私も含めて事情によって他の人と異なることもある。しかし日本社会は皆、同じ価値基準で歩んできている。つまりこの国では少しの違いだけでマイノリティになってしまうのかもしれない。この国で多様性を広めることは難しいことかもしれない。世界的に見てもマイノリティはいつも存在する。
マイノリティと思われても、自分でそう思わない
私は、障害を抱えてしまったせいでマイノリティの側に属することが確かにある。しかし、私は自分をマイノリティと呼ぶことを避けている。だってそれは寂しいことだと思う。ほんの少しの違いしかないのに線が引かれるってとても寂しいことだし、自分で線を引くことをまずしないようにしている。たまにふと思うのであるが、周りにいろんな人がいてくれたら自分の少しの違いもぼやけるのではないかと。でも、それを日本社会に求めるのは難しいことである。自分がマイノリティの側にいかないためには、自分自身が見方を広くもち、変に線を引かない自分でいつもいたいものである。