見出し画像

【週刊日記】できること、できないこと、できたこと#11

春が悲しくなった「死」

3月は、「命」について書いていきたい。
そんなふうに思うようになったのは、なぜだろうか。「震災」は宮城の沿岸部に迎えたので、大きな衝撃を与えているが、私は、震災を迎える前から3月は悲しい月だった。なぜなら明後日は父の命日である。14年前の朝一本の電話で私は、うめきを覚えたことを昨日のように覚えている。父は14年前に病気で亡くなった。3月の後半になると、父に対して思いを馳せるのである。

父から教わったこと

父から教わったことは数え切れないほどある。きっと父は一生懸命に私を育ててくださったと想い、感謝している。父も母も私に勝手に「限界」を設ける人ではなかった。遊びであっても勉強であっても、いろんな事において「出来ない」あるいは「障害があるから無理」と決めつける人ではなかった。だから、子供の頃は出来る範囲でキャッチボールをしたし、勉強だって頑張れば何とか追いつけるという自信を持たせてくれた。一番嬉しかったことは、地元の小中学校の支援学級にいながら、高校受験が出来るように、父親自らが行政に掛けあってくれた。私が小中学校の頃の障害児教育と言えば、まだまだ未開発な部分もあり、当人に必要な教育が受けられなかったり、県内で数少ない学校に入り、寮生活をすることによって、子供時代に家族と離ればなれになることが珍しくなかった。今思えば、私の父はその悪い面を危惧していたのかもしれない。だからこそ、一生懸命に行政に掛けあってくれた。そのおかげで、私は学習の基礎を身につけることが出来たと思う。この基礎があったからこそ、30代過ぎてからも、プログラミングに挑戦するにあたり、周りから無謀と言われたけど、何とか生活の糧にすることができた。本を読める、文字を書ける、誰かの話を聞く、何かを伝える、この4つって当たり前のように身につけられるかというと、私はそうでは無いと思っている。障害故に教育の機会や選択が狭められた方々を私は見る機会もあった。これは、自分が優位などという話では無くて、自分もそうした世界で過ごしていてもおかしくなかった。けど、そうした世界に待ったをかけてくれた父親に本当に感謝しているのである。

父の恩を返せなくても

父の生前間際は、私はまだ障害者施設で働いていた。でも父親は、どんな仕事であっても一生懸命に働こうとする私を励ましてくれた。事務作業をしていたので、事務職だった父親はそれを嬉しそうに見ていてくれた。毎年この時期になると「もっと恩返し、きちんとしてれば」と思いを馳せるものである。でも亡くなってしまった。だからこそ、父から教わったことを最大限に活用し、自分に勝手に限界を決めないでいつも向上心を持って歩みたいと思うのである。先週の日記で、自暴自棄になって「死」を考えた話を書いたが、父が病気で弱り果てていく姿を見たときに、命を止めるよりも「強く」ありたいと思った。ここから自分は少しずつ強くなることができていると思う。もちろん時には弱音を吐いてしまう時もあるけど、命ある限り、向上心を持っていきたいと思っている。それが父親に対する恩返しになれば幸いである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?