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「おめでとう」って難しい言葉

結婚祝いって、どうしてあげるんだろう?

密かに抱いている疑問。

今のところ、「昔のしきたりが残っているから(仕方がない)」と思う部分が大きい。

友達に聞いてみると、「幸せになってね、と思ってるし、二人にとっての節目だし、いろいろあったうえで結婚という答えになっているわけだから、純粋におめでとう、と思って渡してるけどねぇ」と言われた。

わかるようでわからない。

たぶん、私自身が「独り身でも幸せでありたい」と思っているからだろうな。

結婚は二人が選んだひとつの生き方に過ぎないし、いろいろあるのは既婚だろうが未婚だろうが同じなんじゃないか、と。おめでとう、も、なんていうか、「思わない」と言ったら人でなしみたいになるけど、正直あまり感じない。


こんなことを考えているタイミングで、たまたま中学から唯一つながりのある幼馴染から、結婚式の写真が届いた。

その写真はとてもきれいで、二人ともとても幸せそうで、なんとなく涙が出て無意識にフォルダに保存した。

私はその子が結婚したがっていたのを聞いていた。「一人で生きていくことがあまりに大変だから」と。それまでその子が経験してきた大変なことを知っているから、素直に応援したいと思った。そう思ったところで私にできることはなにもなかったけれど。

だから、「結婚する」と彼を連れた彼女と会えたときには、とてもうれしかったし、純粋によかったねぇと思った。その子にはすっと、結婚祝いを渡したいと思った。(まだ渡せてない)


つまりは、私は人と距離がありすぎるということなのか。

結婚する人の紆余曲折を知らないし、それに伴う覚悟だったり苦労だったりをあまり想像できないのかもしれない。


結婚が決まったって、そのまますっと幸せになるわけでもない。それを目の当たりにしているからこそ、ちょっと俯瞰的に見てしまうのもあると思う。

入籍後にいろいろあって、結婚式を中止にするかどうかと悩んだ人の話を聴いている。悩みの最中に知人の結婚式に出て、人の幸せそうな姿を見ながら、どうして私はこうなっているんだろうと複雑な心境を抱えていた彼女。

結婚した理由の一つに子どもが欲しいという思いがあったけれど、なかなか授からない人。授かっても悲しい結果になってしまった人。結婚したものの夫婦関係で苦しんでいる人。「子どもができたからもう用なしだ」とパートナーを切ってしまう人。

そういう色々を見てきて、ひょっとしたら今幸せそうに微笑んで見える目の前の人も、色々を隠すために微笑んでいるかもしれない、と思ってしまう。

だからいつも一歩引いてしまう。私の軽率な「おめでとう」が、相手を傷つけるんじゃないか。そんな取り越し苦労をしてしまう。


私自身が幸せを信じきれないのかもしれない、と書きながら思った。

私はどうしても、喜びよりも悲しみに寄りたがる。インサイド・ヘッドのカナシミが好きだし、そういう人でありたいと思っている。

というか、ヨロコビがよくわからない。うれしいことをそのまま受け止めることの難しさを感じている。私自身のうれしいことは、やはり実感が薄いし、どこか現実感がない。だけど、カナシミはたくさん知っている。

すごく偏った人間なんだろうな。


今のところ、結婚したいと思ってもいないのだけれど、たとえば私のひとつの選択として誰かと結婚したとする。そのときには、あまり「おめでとう」とは言われたくないな、と感じている。想像しても、その言葉にどう笑い返していいかわからない。

私が言われたいのは、「そうなんだ」「そういう選択をしたんだね」と受け止めてもらう言葉かもしれない。「めでたいかどうか」と判定されたくない。これはただのひねくれなんだろうか?


「おめでとう」という言葉を調べると、相手にめでたいことがあったときに使う挨拶だと出てくる。「めでたい」を調べると、喜び祝うに値する様子や喜ばしい様と出てくる。

そうか、だからあまりピンとこないのか。そもそも「ヨロコビとは何ぞや…?」と感じている人間なのだから、うまく使いこなせなくて当然。私が扱うには難易度の高い言葉の一つなんですねぇ。

今日も今日とて、こんなややこしいことを考えています。

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