ぺんちゃんのその後
文を書くのが得意ではないのですが、もしよかったら読んでみてください。
ぺんちゃんを落鳥させてしまいました。
退院した翌日夕方に母が見たときはごはんほしいと呼び鳴きしていて、私が帰ってきたときもゲージの手前にいたのでその時は生きていました。
でも朝は違いました。いつもよりフンが少なく、所々に赤黒いフン。この朝のことは何年たっても忘れない、今でも朝が怖くなります。
一気に今までのことを思い出しました。
放鳥してるといつも自由に飛びまわるのに私が仕事で一時期鬱になってしまった時、泣いてる私が泣き止むまでそっととなりにいて涙をなめてくれたりしました。
部屋にいるとごはん食べながらチラチラこっちを見てたり、巣においでよって誘い鳴いてることも、夜中に寝言言ってる時もありました。かわいい。
気が向いたときしか撫でさせてくれなかったし、なぜか口の中や鼻の中に入りたがったり、ベタなれではなかったけど年々手の中に入ってくるようになったりこれからもっと仲良くなれると思ってました。もうそんな風に小さな知らなかったことを発見する楽しさもうれしさも、あったかい毎日が増えなくなってしまった。自分の不注意です。
追いかけ回してしまったことでどこかぶつけてしまったのではないか、いつもの大きなゲージに入れてあげたら良かったなとか、大好きな水浴びさせてあげたかったなって最後に怖い思いをさせてしまい看取ることも出来ずひとりで亡くなる結果にしてしまい、あの時ああしていれば、違う選択をしていればと繰り返し後悔をし続けます。
体をきれいに拭いて、当日に火葬してもらいました。
早く火葬してあげなきゃと思っていたし、喋るとさらに泣いてしまうから葬儀場の方に素っ気なくしてしまったけど、ポツリポツリと「どんな子だったんですか?」や「どんな思い出がありますか?」「きれいな鳥さんですね」と話しかけてくれて
後で知ったのですが、お別れの儀式だからちゃんと思い出を思い出して、お別れとありがとうをするためなんですね。申し訳ない…良い文化だなと思いました
その日は曇りで、寒くて暗くて光のない日で、申し訳ない気持ちと後悔と悲しさでずっと泣いていたけど、火をつけ少ししたら雲間から光が出てきて明るくなったり、お家に帰っていつもゲージ置いてた所にお骨を置いて、水浴びのお水とごはん置いたらまた陽が出て明るくなって、都合よく解釈しているだけかもしれないけど不思議な気持ちになりました
文鳥は恐がりだしデリケートな生き物だけど小さい身体でいろんな愛情表現をしてくれます。文鳥の気持ちを察して考えることは出来ても、正解とは限らず想像に過ぎない。でもきっと当たらずしも遠からず、と思いたい…小さな家族と暮らしている人には思い当たるのではないでしょうか
とはいえ少しの勘違いから少しずつ、だんだんと大きく選択肢を誤ってしまったのかもしれない。
人と似てる部分だと思う。
知性を得た分もっと複雑かもしれないけど、思ったことをきちんと伝えていかなくてはダメなんだとも、後回しにするのもダメだなと思いました。
今まで漠然と死への恐怖を感じていたけど、いまは少し違って、いつか自分の命がなくなった時にぺんちゃんが覚えてなくてもいいから会えたら良いなと思います
もし大切な小さな家族がなくなってしまって悲しんでいる人へ この文がなにかになれたら良いなと思います。ガマンせずたくさん泣いていいと思う。
こんなに涙が出るのも、日常のふとした瞬間に思い出して突然泣いてしまうのも仕方ないことかと思う。大切で、生活の一部で、でも急になくなってしまった。何度も涙をこらえてきたけど溢れ出てきてしまうものでした。大切な相手には時間を作ってたくさん会って、言い訳せず自分にできることを。無理をする必要はないけど後悔をできるだけ少なくすることはできる。
私の好きな知恵袋よかったら読んでください
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1156017236
うまく文にならなかったけど、読んでくれてありがとう