日本語教師
2001年11月26日。今日もニューデリーでは何もすることがない。これが何日も続くと沈没と呼ばれるようになるのだろう。オールドデリーやヤムナー河畔にいけばオールドデリーの中心部チャンドニ-・チョウクやインド最大のモスクであるジャマー・マスジッド、1639年にアグラ城をモデルとし建築が始まり、1648年に完成したラールキラー=レッドフォート、マハトマ・ガンディ(1948)、インデラ・ガンディ(1984)、ラジブ・ガンヂ(1991)が火葬されたラージガートなどの観光名所も数々あるのだが、どうも観光する気になれない。こんなことなら日帰りか1泊2日でアグラかジャイプールに行けばよかったのかも知れないがすでに遅い。タージマハルだけは見ておきたかったな~と思う。だが仕方がない。明日の飛行機で東京に帰るのだ。間違っても乗り遅れだけはしたくない。デリーで一人ぼっちなど悲しいではないか。
さて、予定も何もなく、とりあえずチベッタンマーケットに行くかと考えて、まずはコンノート・プレイスに歩いて向かった。パハール・ガンジよりコンノート・プレイッスまでは歩いて30分くらいだろうか?コンノート・プレイスに入ったところ、映画館のような建物を通り過ぎようとしたとき、2人組のインド人がなにやら親しげに話しかけてきた。とうとう来たか?インド名物胡散臭い輩の登場である。最初は、
「インドのどこに行ってきたんだ?」
「インドは気に入ったか?」
「マリファナはやったのか?」
などと他愛もない話をしてこちらの気をひきつけておこうとしているようだった。そして話も打ち解けたころに、
「いいバザールがあるから行ってみないか?」
と誘われた。人をはじめから疑うのは気が引けるが、少なくともその2人連れは怪しかった。バザールというのだからパハール・ガンジやオールドデリーの町並みを想像していたのだが、行ってみるとなんてことはない土産物屋だった。ショーウィンドウには高級そうな装飾品が並べられている。如何にも高そうだ。現金では買えないだろう。しかし財布にはまだ1000ドルと8000ルピーくらい入っている。注意しなければ!!!
「バザールというからパハール・ガンジみたいなところだと思っていたのにこれじゃあ話が違うじゃないか。こんなところには用がないから帰る」
そういうと2人組の一人が
「頼むから友人の店を見てくれ、この近くにあるから」
ますます怪しくなってきた。それでも、これからどんな事態が待ち受けているのか少々興味があったのでついていってみると、店というより事務所のような入り口であった。おそらく中に入ってしまったらバカ高い土産物を無理やり買わされるか、睡眠薬入りのチャイで意識を失っている間に、財布を奪われたことであろう。それだけでなく身ぐるみ剥がれ、放置されるケースもあるという。そうなっては大変だ。
「ここにも興味がない」
というと男は私の腕を取って中に入らせようとした。だが、たいした力も入っていなかったのでその手を振り払い、「シット!!!」と言い放ってその2人組とは別れた。危ないところであった。もしも私がクレジットカードなどを持っていようものなら帰国後大変な額の請求書が送りつけられてきたことだろう。
その2人組と別れてから数分後、別のインド人のオヤジにも声をかけられた。
「いい土産物屋があるぞ~~~」
私は先ほどの2人組の件もあり、インド人の物売りに嫌気が指していたので、
「俺は買い物なんかに興味がないんだ、バカヤロー!!!」
と怒鳴ってしまった。それでもやつはしつこく、
「どこへ行くんだ?」
と聞くので、
「チベッタンマーケット」
というと、
「チベッタンマーケットはそっちじゃないぞ」
デリーの地図は持っていたのだが、あの2人組につれまわされて自分がいったいどこにいるのかが分からなくなってしまった。しかし、オヤジについていったらまた騙されるところだっただろう。インドの都会は危険がいっぱいである。
さて、チベッタンマーケットである。地図にはエア・インディアが入っているビルの道を南に少し行ったところだけは分かるのだが、今の私は迷子状態である。それでも街歩きの感なのだろうか?まもなくエア・インディアのビルが見えてきた。これで安心だ。
ところが、チベッタンマーケットとは言ってもチベット人が経営しているような雰囲気はなく、品揃えもイマイチであった。幸い、日本に帰ったら渡さなければならないお土産はダラムサラで買っておいた。むしろここのチベッタンマーケットよりはエア・インディアの前の道路でやっているチベット人の露店のほうがましだろう。
いちおうの目的であるチベッタンマーケットを見てがっかりした私は、日本文化センターがあることに気がついて、そこへ言ってみようと思った。コンノート・プレイスからもそう遠くない。入り口に行ってきると何人かのインド人が入館したがっているのだが、なかなか門を開けてくれない様子だった。そこで私はここぞとばかりに日本国のパスポートを提示し、なんとか入り込むことができた。
中には2つの図書室があり一つの部屋では長いテーブルが置かれてあり、置いてある図書は日本の紹介の本や、日本語検定の参考書といったところだろうか。10数名のインド人が必死で日本語の勉強をやっていた。そしてもう一つの部屋には新聞のバックナンバーがあり、ここ3ヶ月、日本の情報と隔絶された環境にあった私はそれに飛びついた。日本経済新聞だっただろうか?かなりの数のバックナンバーである。それを一枚一枚丁寧に読んでいると、テーブルを挟んで向かいに座っていたインド人が分からないところがあるから教えてくれという。外国人が日本語を勉強していると不思議とうれしくなって懇切丁寧に教えたくなるものである。そこの図書室で私は即席の日本語教師になってしまった。
インド人が知りたいのは日本語の助詞の「て・に・を・は」である。たしか同じような内容の文章の表現の違いを説明しなければならなかった。しかも上級者ならある程度日本語が分かるので日本語で説明できるが、初級者だと英語で説明しなければならないのである、これには参った。私の英語力で日本語を教えるなんて不可能だ。それにもかかわらず、
「こっちに先生がいるぞ~~~」
と言ってインド人が私の周りを取り囲む形になった。こうなっては気楽に新聞なんて読んでいられない。早々に図書室から逃げ出した。
その後、私は夕食を食べにコンノート・プレイスへ向かった。今日でインド最後の夜である。ちょっとだけリッチな気分に浸りたかったのでドアマンがドアを開けてくれるような今にも高級なレストランに入った。しかしである。ダラムサラにいたときとは全然値段が違うのだが、食べたところで300ルピーである。日本円で900円だ。ちょっとした定食屋に入ったようなものである。まあ、確かに外国人向けの高級ホテルでディナーを食べればそれなりの料金は取られるのだろう。
インド最後の夜はちょっとだけリッチな気分になって更けていった。