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12.設計製図第1

1年の時の設計の実技科目は設計製図第1であるが、建築の図面の描き方など、教えられることはなかった。専門学校はどうかわからないが、大学とはそういう所らしい。具体的な図面の描き方は、入学して買った「建築設計資料集成」を参考に、自分で勉強しなければならない。しかも、最初の課題は、水彩での風景や建築の写生であったり、フリーハンドでの原始的な住居の設計と模型の製作だった。
この住居の設計では、自分の出身地の風土などに合わせて、自給自足の生活をするための住居を設計するというもので、私の地元といえば、奈良県の生駒市であるが、あいにく、大学の図書館にはこれといった専門書がなく、生まれて初めて千代田区永田町の国立国会図書館に調べに行った。国立国会図書館の一般利用者へのサービスは、貸出ができず、膨大な図書カードを調べて、何冊かの本を閉架書庫から貸してもらって、館内で閲覧しなければならない。
生駒で自給自足するためには狩猟・採集や牧畜などではなく、やっぱり農耕だと思ったので、農耕に適するかどうか、地質的な事柄を調べなければならなかった。生駒の歴史や文化などについてはよくわかるのだが、地質まではよくわかっていなかった。そこで調べてみると、断層運動と褶曲運動で生じた生駒断層帯は、大阪府の枚方市から羽曳野市までほぼ南北に延びる全長約 38km の断層帯で、生駒山地とその西方の大阪平野との境界付近に位置する。生駒山の地質は、主におよそ1億年前に形成された火成岩(花崗岩、閃緑岩)であるこれらの花崗岩類は、地下でマグマが冷えて固まって地球の表面に押し上げられたもので、花崗岩を構成する主な鉱物は石英、長石、雲母で構成されている。これらの鉱物は温度に対する膨張率が違うので、温度変化や凍結、霜の作用によって雨水が割れ目を伝って入って、長石と雲母は二酸化炭素に出会うと粘土に変質、風化に強い石英が変質したものを「マサ土」と呼んでいる。生駒山地の山麓は植木や花卉造りが盛んなところでこのマサ土が地場に恵みを与えている。生駒山地は大阪の基盤が表面に現れた場所と言える。生駒山の上部は斜長石とカンラン石で構成された斑レイ岩という岩石で出来ており、これについては花崗岩が造られる時に貫入して出来たものと言われている。生駒山頂が他に比べて高いのはこの岩石が堅く侵食に強いためだ。また、生駒山地では「生駒の鳴石(壷石)」が奈良県側の標高 200~250m 位の丘綾帯の宅地造成地で発掘されている。1億5千万年前の地層のものでたいへん貴重な石として天然記念物に指定されている。この石は、地下水などに溶け込んだ珪酸 (SiO2) 成分や褐鉄鉱をセメント材料として小石が団塊状に固められたものである。径 20~30cm で球状をなして内部が空洞になっているものでは、その中に粘土塊が入っていると音を発するので鳴石と呼ばれているなどと書かれてあった。しかし、こうした特性が、濃厚に適しているかどうかはよくわからない。そこで、気候と植生を調べると、今から 7000 年~6000 年前、縄文時代が最盛期で大阪では生駒山の麓まで海水が入り込み河内湾と呼ばれていた。河内湾は、北は阪急茨木市駅付近から高槻市にかけて、南は八尾市太子堂の 25 号線付近まで広がっていた。この気候の変動は陸地の植物にも大きなインパクトを与えたようだ。日本列島は南北に長く、中緯度地方に位置する。しかも山岳地帯も多く、亜寒帯、暖温帯、亜熱帯さまざまな気候帯に特徴づけられ、したがって植生も極めて多様である。氷河期にブナの化石が生駒の北部枚方の丘陵地帯では発掘されている。縄文時代の日本列島は、遺跡から出土した花粉より分類した結果によれば、寒冷期は針葉樹が大半を占め、平野部では落葉広葉樹林大部分が照葉樹林と変化していった。日本の平野部の植生は二つに分かれ、冷温帯林(東・北日本)暖温帯林(西日本)が分布していた。これら元々あった冷温帯林や暖温帯林が時代とともに変貌していった。森林の遷移は寒さ荒れ地に強いマツ、ツガなどにより占有されていたが、縄文時代 (今
から 12000 年~2300 年前)になるとニレ、ケヤキ、エノキ、ムクノキ、コナラ、トチノキの落葉広葉樹の陽樹たちにより森の基礎がつくられ、遷移は長い時間を経て陰樹(シイ、カシ、ブナ etc)が森林を支配して森林は極相(クライマックス)に到達する。このような過程を踏んででき上った森を極相林という。これらは縄文までの時代の話で、では、弥生以降はどうかと見れば、弥生時代に入り、河内湾は河内湖となり、集落は丘陵や生駒山山麓から平野部へ移動がはじまり、大陸から伝わった水稲耕作を主にした農業社会の時代となっていた。弥生時代中期には冷涼化と多雨化による気候の湿潤化もあったが、生産力が向上して人口も増え、大集落が形成されていく。弥生時代の人々が居住する以前はアカガシやスダジイを中心とする照葉樹林が繁茂していたが、弥生時代中期になると集落周辺の照葉樹木は伐採されていった。 ここまで読んで、まあ、農耕は大丈夫だとはわかったが、では、生駒の特性とは何かと言われればよくわからない。せっかく、国立国会図書館まで来て調べたのに、この程度しか調べられなかったので、もう諦めて、お昼に食堂でカレーライスを食べて引き上げることにした。そこで、苦肉の策で作ったプランは、住居と家畜小屋がくっついた連棟の茅葺きの竪穴住居で、模型も、紙粘土で作り、茅葺き部分は麻縄を細かくちぎって何層も張っていくという面倒くさい作業になった。本来、農耕を生業とするので、穀物の貯蔵を考えて、高床にすべきであったが、そこまで考えが回らなかった。
1年生最後の課題は、共働きで子供のいない夫婦のための個人住宅の設計で、やっと設計らしい課題になったが、図面の製作は全て大学の製図室で行って、清書も、まだロットリングではなく、烏口を使ってやったので、線が汚くて、水彩で描いたパースも、はっきり言って下手くそだったので、落第しなかっただけでもラッキーだったかもしてない。ちなみに、私の時代はまだCADが一般的ではなく、全て手描きだった。いまならCAD・CG Ⅰ・Ⅱという専門科目があって、設計製図もCADやCGを使うと思うので、まら、作品や成績も変わってくるかもしれない。どんなプランにしたかは、もう忘れてしまったが、夫婦それぞれの寝室と仕事部屋を作って、独立した大人同士の共同生活といったプランで、外観は、まだ、当時、安藤忠雄を意識していたので、コンクリート打ち放しにした。

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