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15.ムスタン、ゲリラ基地

ゲリラ戦活動を継続し、チベットの自由と独立を求め、チベットの内外で生きているチベット人の闘争の精神を維持するために、インド到着後すぐにチュシ・ガンドゥクの組織の指導者たちはゴンボ・タシ司令官とゲリラ基地の設置とその可能性のある場所に関する協議を開催した。ゲリラ戦基地でチュシ・ガンドゥクを助けることを喜んだ古い友人CIAに加え、台湾の国民党政府からの新しい申し出もあった。当時、中華民国を代表する元軍のパイロットのツェパック・ ドルジェ氏は、彼の政府に代わってチュシ・ガンドゥクにゲリラ戦の基地において組織が望んでいた合計40,000ルピーを寄贈する申出をした。
チュシ・ガンドゥクの指導者たちは2つの可能性について議論し、最終的に過去に密接な関係を持っていたCIAと一緒にゲリラ戦を継続することに決定した。1960年はじめ、ダライ・ラマ法王の2番目の兄のギャロ・トンドゥプが、ゴンボ・タシとラモ・ツェリンとともに、北部ネパール国境にあるムスタン地方に大規模な抵抗運動の基地を設立するという提案をCIAに持ちかけた。ネパールの北西、西部のポカラの北に位置するムスタンは北に向かってチベットに突き出した数千平方kmほどの山間の土地である。南にはアンナプルナ、ダウラギリの山があり、カリ・ガンダキ川がその中心部を南北に流れ、やがてトリスリ川に合流してガンドルンに注ぐ。その中心地は、チベット国境から30kmの台地に位置するロー・マンタンである。
インドとネパールの4つの可能性のある選択肢のうち、チベットの中に複数の峠と経路を持つムスタンが抵抗作戦を行う際のベースとしてゲリラの基地の場所として戦略的に有利であるという理由で選ばれた。1960年春にCIA局員との面会で、ゴンボ・タシは国家防衛義勇軍(NVDA)を改編し、ムスタンを本拠として作戦を遂行してはどうかと提案した。CIAは、アメリカ政府が是認するためにはネパール政府の許可が必要だということは承知していたが、安全保障と政治的要因からネパール政府に申し入れることができないので、極秘裏にその計画を進めることになった。
1960年、チュシ・ガンドゥクのトップリーダーがインドのダージリンで正式な契約と署名が行われた。この正式な契約への署名者は次のとおりである。
(1)リタンのアンドゥク・ゴンボ・タシ司令官、
(2)デルゲのジャゴ・ナムギャル・ドルジェ、
(3)ンガバのタオパン・リンチェン・ツェリン、
(4)ババ・イェシェー司令官、
(5)ギェルタムのカチェン・チャゾ、
(6)チャットのケルサン・チョジン。
これら6名の署名に加えて、後にサドゥー・ロプサン・ヒャンドゥプとチャムド・ドルツェが合意を支持するために招待された。ババ・ゲン・イェシェーは、その後ムスタン・ゲリラ組織の司令官に任命された。彼は1958年8月、ゴンボ・タシがチベット東部で中国軍との戦闘をはじめたとき、ロカ地区に残った国家防衛義勇軍(NVDA)部隊を率いた人物である。
時間を追わず、小さなスカウト・チームがムスタンに最初に送られ、その後、義勇兵の募集事務所が設立されていた西ベンガル州のダージリンに小グループが派遣された。しかし、チュシ・ガンドゥクの再編が行われたとの情報が漏れると、その噂は北インドのチベット人社会に野火のように広まった。大勢の元NVDAゲリラがシッキムからダージリンのゴンボ・タシの本拠に集まって、入隊を志願した。24人のグループが選ばれ、指導者としての訓練のためにアメリカのコロラドに送られた。
ゲリラの飛び地が、1960年、ババ・イェシェー司令官の指導の下、ネパール北部の辺境のロー・マンタンの南約25km、チベット国境から40kmの地点に設立された。間もなく、深い渓谷と密林におおわれたニルギリ山脈の麓に配給、輸送、弾薬、情報、内部訓練の5部門からなる25の建物が出現した。ゲリラ基地は初期には選ばれた3.000人以上の選ばれた兵士たちを誇っており、ゲリラ活動は1960年から1974年まで国境線の背後で実施された。
チュシ・ガンドゥクが非常に驚いたのは、ダージリン外国人登録事務所(FRO)がゲリラの3人のトップリーダーに「活動は、インドの利益に反して行われている」という罪でダージリンを去ってニューデリーに行くように命令したことである。したがって、ダージリン外国人登録事務所(FRO)によって与えられた一定期日以内に、そのうちの3人、ゴンボ・タシ司令官、ジャゴ・ナムギャル・ドルジェとサドゥー・ドゥンダップ・ニャンダルは、指示に従ってダージリンを去り、ニューデリーに行った。彼らは首都ニューデリーに閉じ込められ、1960年終わりから1961年半ばまで、6ヶ月間、街を離れることは許されなかった。
一方、1960年11月、ジョン・F・ケネディーが35代アメリカ大統領として選出された。ケネディーは東南アジアにおける共産主義の脅威を認識しており、米ソ関係の悪影響を懸念していた新任の駐インド大使ジョン・ケネス・ガルブレイスの強硬な反対を押し切って、1961年3月中頃、CIAにチベットゲリラへの支援継続を認めた。
1961年3月15日、C-130Aによって最初の空中投下が行われ、それと共に、キャンプ・ヘイルの卒業生も到着した。こうして、ムスタン・ゲリラ組織、再編された国家防衛義勇軍(NVDA)は、切実に必要としていた近代戦技術も手にしたのである。彼らは、M-1ライフルとスプリングフィールド銃、80mm無反動砲、2インチ迫撃砲、秘密の無線中継基地を設けるための太陽光電池、暗号化されたメッセージ用の乱数表、マシンガン用のサイレンサー、自殺用の毒薬、スパイ用の小型カメラを携えてきていた。彼らの存在は、1959年3月に反乱が頂点に達して以来、初めてチベットに実質的な軍事的希望を与えるものとなった。
同時に、チベット国境をまたぐ投下地域(DZ)に武器が投下された。当時ババ・イェシェー司令官の部隊は100人で構成される16の中隊に組織されていたが、投下された武器はその約半数分だった。ババ・イェシェー司令官はその後すぐに中国軍に対する作戦を開始し、50人の部隊を派遣して人民解放軍駐屯地と、新疆ウイグルとラサを結ぶ幹線道路を移動する車輛部隊を攻撃させた。これにより人民解放軍は、同地域の兵力を増強さし、補給の車輛部隊に300km北の青海と新疆ウイグルを結ぶ幹線道路を経由させなければならなくなったのである。
1961年夏、CIAは今後も物資投下を実施する許可を得るために、国家安全保障会議(NSC)特別グループの賛同を求めたが、ガルブレイス駐インド大使はこの作戦にあくまで反対し、会議は数ヶ月にわたって長々と続けられた。しかし、10月にキャンプ・ヘイルで訓練を受けていた者の1人のラグラ・ジェタール率いるゲリラ・グループが人民解放軍車輛部隊を奇襲して、全員を殺害し、極秘文書を大量に持っていた連隊副指揮官を発見した。この文書がアメリカに送られると、それを携えたCIA長官アレン・ダレスが登場し、ケネディー大統領はさらなる武器投下を許可した。
1964年、CIAとインド情報局は、ムスタンのゲリラ部隊と133人のキャンプ・ヘイル訓練生の活動を調整し、指揮するために、ニューデリーに共同作戦センターを創設した。この背景には1962年に中華人民共和国がインドに侵攻し生じた中印国境紛争がある。
中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっており、そのため中国国内が安定し、周恩来とネルーの平和五原則の締結によりインドが中国に対し警戒感を有していない機会を捉えようとしていた。こうした状況下で1959年9月にインドと中華人民共和国の両軍による武力衝突が起き、1962年11月には大規模な衝突に発展した。
紛争は、主にカシミールとその東部地域のアクサイチンおよびラダック・ザンスカール・バルティスターン、ブータンの東側東北辺境地区(現在のアルナーチャル・プラデーシュ州)で激しい戦闘となったが、周到に準備を行い、先制攻撃を仕掛けた中国人民解放軍が勝利を収め国境をインド側に進めた。インドの保護国だったシッキム王国では、ナトゥラ峠を挟んだ地域で小競り合いが起き、峠の西側は中国となった。
1966年、新疆ウイグルとラサを結ぶ幹線道路を移動する人民解放軍の輸送部隊を瓦解させるために派遣された小隊が輸送トラック団を壊滅させた。ゲリラたちは戦闘が終わってから、遺体の中に人民解放軍の西部司令官と幕僚全員が混じっていることに気付いた。そして、一行が携えていた軍の全記録の中に、その頃はじまったばかりの文化大革命の関する極めて貴重な情報、1959年の決起において、中国側の概算でも8万7千人のチベット人が殺害されたことを暴露する文書が含まれていた。これにはチベット人だけでなく、CIAにとっても素晴らしい掘り出しものだった。
ムスタンの最大の成果は、スパイ組織の形成に負っていた。ムスタン・ゲリラは、またたくまにチベット全土に地下組織を張り巡らせることに成功した。情報が以前に劣らず質的にも量的にも充実し、作戦の効率を飛躍的に高めた。中国人たちはすべてのチベット人に疑いの目を向けていたにも拘らず、各地方の中国共産党は一定数の少数民族を行政機関の幹部に登用する義務があった。その中には、中国人に協力するように見せかけて、地方委幹部として昇進していく一方で、密かにムスタン・ゲリラに情報を提供するチベット人が存在した。ムスタン・ゲリラの連絡員は、夜間行動を行い、そうした情報提供者から情報を収集し、ヒマラヤに沿って膨大な人民解放軍が配備されていることや、中国の主要な水爆基地が新疆ウイグルのロプ・ノールからラサの北方265kmのナクチュに移動していたことを、証拠づけて文書化する任務を負っていた。
ところが、1972年、米中関係の改善をきっかけとして、ゲリラ基地へのCIAの援助は徐々に終了されていくことになった。
1969年1月20日に大統領に就任したニクソンは冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進する。
政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問、周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。1972年2月にニクソン大統領が北京を訪問し毛沢東主席と会談した。米中和解への条件として、毛沢東はムスタン・ゲリラへの支援中止を求めたと言われている。
ゲリラ組織内でも問題がひき起こっていた。ゴンポ・タシ司令官が1964年9月にインドのダージリンで亡くなると、ババ・イェシェー司令官が実質的に組織のリーダーとなっていた。しかし、ババ・イェシェー司令官は次第に独裁色を強め、財務部を解散し、資金管理を掌握した。これに対して、1968年、共同作戦センターは問題解決を決意し、夏にラモ・ツェリンをムスタンに派遣し、チベット亡命政府の代表でもあるプンツォク・タシと合流した。ムスタンではババ・イェシェー司令官と任命されて間もない副司令官ギャツォ・ワンドゥとの間に深刻な亀裂が生じていた。ギャツォ・ワンドゥは、1957年11月にチベットに降下していた、CIAの訓練生の2つ目のチームのリーダーである。
1969年2月、ババ・イェシェー司令官はチベット亡命政府の所在地であるダラムサラで開かれるチベット蜂起10周年を記念した式典に参加するためにムスタンからニューデリーに移動し、共同作戦センターに出頭した。そこでギャロ・トンドゥプから指揮権が剥奪されることを知った彼は自分に忠誠を誓った支持者とともに、ムスタンから数km東のママンに行き、独自の本拠を設置した。こうしてできた2つのグループの間で交戦状態が生まれ、ネパール軍の介入でようやく沈静化した。
この騒動で、ババ・イェシェー司令官がムスタンを去り、カトマンドゥに行くこととなり、代わってギャツォ・ワンドゥがムスタン・ゲリラ基地の司令官に就任した。
1973年の11月、毛沢東は中国を訪問していたネパールのビレンドラ国王にムスタン・ゲリラ基地を閉鎖しなければ直接軍事行動に出ると脅迫し、そのためにビレンドラ国王は北西ネパール全域を立ち入り制限区域に指定し、王宮軍、警察、国連平和維持軍からグルカ兵10.000人を派遣してゲリラの武装解除を命じた。しかし、ゲリラたちは国王の命令に従わずネパール軍との戦争を行う準備をした。
緊張した状況が生じたため、航空研究センター(ARC)ニューデリー事務所のケルサン・クンガ、タシ、チャッティン・ロプサン・ツルティムはダライ·ラマ法王の署名入りの手紙を偽造し、ムスタン・ゲリラに送った。ダライ·ラマから送られたと称する偽造の手紙は、ネパール王国政府の命令を遵守し、当局に武器を引き渡すようゲリラに助言した。しかし、ゲリラたちはその手紙を疑い、全くそれに注意を払わなかった。
しかし1974年の初めに、多くの自由の戦士たちが驚いたことは、法王もまたほとんどのゲリラが苦悩していたゲリラ部隊にテープに録音されたメッセージを送り、武器を置き、平和的にネパール政府に降伏するよう伝えたことである。1974年7月後半、大多数の者がダライ・ラマ法王の指示に従い始め、武器を背負ったラバの長い行列が南に向かい、ネパール西部に入った。ところが、ネパール側は投降する代わりに更生を支援するという約束を破り、大がかりな作戦を展開し、ゲリラたちを捕えてジョムソンに連行した。
しかし、ギャツォ・ワンドゥ司令官は、ネパール当局の二枚舌を疑い、インドに脱出することにした。彼と一緒にいくつかの重要な運用上の記録と現金を運ぶ、小さな幹部と一緒にギャツォ・ワンドゥ司令官はネパールとチベットの国境を通じてインドに入ろうとしたが、4人のゲリラを伴ったネパール軍の空挺部隊によって傍受され、待ち伏せされ、殺害された。ポカラで当局に投降したゲリラの指導者6人も後に逮捕され、カトマンズで7年間投獄された。
こうして、ムスタンの抵抗作戦は、1974年に終了した。抵抗組織のメンバーの一部は、ネパールの農業集落と工芸品センターで再定住し、残りの者はインドで「エスタブリッシュメント22」に参加した。

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