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ダラムサラとは(パート2)

1959年3月1日。ダライラマはモンラム・チェンモ(大祈祷会)の祭典を挙行するためにジョカンにいた。この祭典の間にダライラマはギェシェー・ララムパ(チベット仏教の最高の学位)の最終試験に臨んでいた。大変な数の僧侶や僧院長、転生化身のラマ、ラサ市民の前で弁証法的な討論で相手を論破しなければならない。当事、ダライラマは宗教上の問題で頭がいっぱいだったのである。しかし、政治的緊迫感は増す一方だった。
そこに人民解放軍の譚冠三将軍に派遣され、人民解放軍の基地内で行われる演劇の招待状を携えて2人の将校が直接ダライラマに会うためにノルブリンカにやってきた。通常、将軍からのメッセージはダライラマの上席侍従ドンエルチェモ・パラか最高官僧院長で内閣におけるダライラマの代理を務めていたチキャプ・ケンポを通じてダライラマに届けられるのが通例であった。このことを知ったチベット政府の役人たちは直ちに疑惑の念を抱えた。ダライラマに危険が迫っている。3月5日、ダライラマはノルブリンカに戻る。
1959年3月7日。再び譚冠三将軍からのメッセージが届く。李という通訳が最高官僧院長に電話をしてきて、ダライラマの出席の日時をはっきり知らせてほしいと伝えた。ダライラマは3月10日と答える。1959年3月10日は、チベット人にとっては忘れられない日付であろう。中国のチベット支配に対する民族蜂起が勃発するのだ。
1959年3月9日にはラサ市民の間にもこの観劇のニュース(ダライラマは武装護衛隊の付き添いなしに中国軍基地に赴かねばならなかった)が知れ渡り、彼らは恐慌する。なぜなら、この2年の間に、中国の敵とみなされた何人かの高位聖職者やチベット高官が同様なパーティーに招待され、それっきり戻ってこなかったのである。ラサ市民は誰もが「次はダライラマが誘拐される番だ」と思ったに違いない。ダライラマはチベットの宝である。絶対に護らなければならない。それがチベット人の使命である。
1959年3月10日。ラサの約3万人の市民がノルブリンカを取り囲んだ。人々は怒りの声をあげ、中国人に対して敵意まるだしのスローガンを叫んだ。その群集の主役は、チベット人女性だったらしい。群集は膨らむ一方だった。中国人はスピーカーで解散命令を発するが、聞き入れる者など一人もいない。人民解放軍はキチュの北の高台に展開しており、ポタラ宮殿とノルブリンカ、ショル村、チャン・セプ=チャル(ダライラマの家族)に砲身を向けていた。両者がぶつかる事態になれば群集の抗議行動は軍事力で弾圧され、何千ものチベット人が虐殺され、チベット全土が全面的に中国による軍政支配を受けることになる。それは中国が望んだことかも知れないが・・・
1959年3月11日。中国がいよいよ大砲を打ち始めた。その後、何発かの銃声が響いた。すると、それに応じて機関銃の連射音が轟いた。チベット防衛義勇軍チュシ・ガントクが応戦したのだ。全面武力衝突の一歩手前である。
1959年3月12日。チベット政府の数名の役人が民衆の中から選ばれた代表とともに緊急会議を開き、17条協定にもとづく中国の権威を否定する宣言をし、独立宣言に関する文書の作成の準備を行った。チベット兵は無理やり着せられていた人民解放軍の制服をかなぐり棄て、チベット軍の制服をまとった。ダライラマは譚冠三将軍に書簡を送り、中国人をなだめるとともにチベット人には武力行使を避けるように説得したが、一度火がついた抗議の怒りは静まることはなかった。
同じ日、チャン・セプ=チャルの庭に砲弾が撃ち込まれた。護衛が倒れ、建物を取り囲んでいる壁に大きな穴があいた。地下室の扉を破って飛び込んできた人民解放軍の兵士はチベット人たちに銃口を突きつけ、ダライラマの侍従医テンジン・チュータクをはじめ、ダライラマの祖母(モー・ラ)、執事長、従僕、メイド達を凍てつく野外に引きずり出し、手足を縛って数珠つなぎにし、捕虜とした。庭には25人の死体が血に染まって横たわっていた。マスケット銃と短剣で武装していたが使う暇がなかったのである。
騒乱と無秩序がラサを支配した。国家防衛義勇軍とチュシ・ガントクはロカ(南チベット)において中国側のすべてのコミュニケーション手段を切断し、キチュ沿いに陣取って人民解放軍と対峙した。
1959年3月16日。中国側がノルブリンカを破壊する準備をしているとのニュースが入った。民衆の報告によれば、ラサ近郊のあらゆる大砲がノルブリンカの射程内の位置に置かれ、建設中の水力発電所の山砲4門と重機関銃28挺がラサに運ばれ、重砲20門がラサ市内に向けられ、軍用トラック100台が次々に人民解放軍駐屯地に移動しているとのことであった。中国が本腰を入れて鎮圧の準備をしていたのである。
もし、軍事力で弾圧されることになれば、ダライラマの命も保障できない。チベット人にとって、ダライラマとはその存在そのものが最高に貴重な存在であり、チベットとチベット人の人生を代表するものと信じていた。故にダライラマが中国の手にかかって死ぬようなことになればチベットも滅亡する。チベット政府の大臣たちは民衆指導者たちと相談し、ダライラマのラサ脱出を計画した。しかし隠密裏に。
1959年3月15日に続いて、17日にネーチュン神託官がトランスに入り、「無限の空間」の中心にある護法神の「想像を絶する宮殿」から大臣ドルジェ・タクデンを呼び出し、神の言葉を伝えた。
「時が来た。直ちに行け」
ネーチュン神託官はダライラマに体をくっつけ、紙を差し出した。紙にはダライラマとその家族が無事にインドへ到着するためのルートが記してあった。
1959年3月17日の夜、ダライラマはラカンに安置されている自らの守護神マハーカーラに祈りを奉げ、別れの印として一枚のカタを祭壇に献じると、ノルブリンカの「続きの間」に用意されていた兵卒の着物と毛皮の帽子を着用して出発の準備にかかった。
ノルブリンカの庭園や門を守備していた護衛兵はすでに隊長クスク・デポンによって解散させられていた。誰にも気づかれないように門をくぐるためである。そしてダライラマは警護の兵隊に紛れてノルブリンカを脱出する。
ノルブリンカを出て、まずしなければならないことは、キチュ(ヤルツァンポの支流)の南岸に渡ることであった。北岸には人民解放軍の駐屯地があった。それを避けなければならなかったのである。枝を編んだ骨組みに獣皮を張った船で渡りきると、駐屯地の燈火を横目で見ながら道亡き道を通り過ぎ、午前3時、ナミュギャルガンという土地に辿りつき、休憩をとる。20歳のカンパの指導者ワンチュク・ツェリンがダライラマのチベット脱出ルートを防衛するために400名のカンパゲリラを引き連れるためにロカへ向かった。
1959年3月18日午前8時。再び出発したダライラマ一行は、チェ・ラの山麓に到着し、休憩をとった後、一気に坂道を登り始めた。チェ・ラとは「砂地の峠」という意味である。そのチェ・ラを下ってヤルチャンポ河を渡るとキェシェン(「幸福の谷間」)という村落がある。そこにはカンパの義勇軍が待機していた。
1959年3月19日、爆撃と機銃掃射がラサを襲う。
1959年3月23日、人民解放軍がポタラ宮殿の屋上に五星紅旗を掲げる。20日以来この日までに虐殺されたチベット人は1万5千人。
キェシェンを出発した一行はラミと呼ばれる僧院を経てドゥフク・チョエホル→シンエ→チョンゲイ・リウデシェンへ向かった。当面の目的地はルンツェ・ゾンだ。その間、一行は100人に膨れ上がり、350人のチベット兵と50人のゲリラに護衛される大集団になっていた。
チョンゲイ・リウデシェンを発つと、ヤルト・タグ・ラを越え、エ・チュードゥギアンを経て、もう一つの高い峠、タグ・ラを越えてショパンブという集落に立ち寄った後、ルンツェ・ゾンに到着した。ゾンとは砦のことである。岩の上に巨大なビルディングがあり、小型のポタラ宮殿の様相を呈していた。
ルンツェ・ゾンにおいてダライラマは新しい臨時政府の樹立を仏陀に献ずる宗教的儀式を行う。儀式には僧侶、俗人の役人、村の領袖たちをはじめとする多くの人々が参列し、ダライラマは伝統的な権威の象徴である徽章を受け取った。そして臨時政府樹立の宣言が読み上げられ、チベット全土にダライラマの署名のかかれた文書が送られた。
当初、ダライラマ一行はこのルンツェ・ゾンに留まり、各国の支援を待つつもりであったが、チベット内に留まる限り中国側の執拗な追跡を逃れることができない上、チベットに留まること自体が多くの戦いを引き起こし、多くの人を死に至らしめると考えたダライラマはインドに亡命する決意をする。インド政府に対して、収容を懇請するメッセージを持たせた幾人かの役人を一足先に派遣し、早朝5時、ダライラマは彼らの後を追ってルンツェ・ゾンを後にする。
2,3日間、猛吹雪や雪に反射する光、それに滝のように落ちる雨に悩まされながら一行はラゴーエ・ラを越え、3方に分かれて進んだ後、ジョラに付き、カルポ・ラ(「白い山」)を乗り越えてチベット最後の村、マンマンにたどり着いた。そこには先行してインドへ向かっていた役人が帰ってきており、インド政府の歓迎する旨のメッセージとインド政府の役人がインド領内最初の集落であるチュータングモでダライラマ一行を出迎える用意があるとの吉報をうけとる。そしてダライラマはチベット・インド国境を越える。

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