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ダラムサラ到着

バスは夜のハイウェーをひた走っていた。インドとパキスタンを結ぶ軍事用に整備された道路らしい。道はどこまでもずーーーっと真っ直ぐだ。周囲の景色は暗くてほとんど見えない。わずかに道沿いに並木があるのがわかるだけである。インドのハイウェーは照明などなく、車のヘッドライトだけが頼りである。途中、点々と人家や商店の集まった集落があったが、何故だかどこの家も電飾で飾り立てていてやけに派手だった。
インドやパキスタンでは満艦飾に飾り立てているバスが有名だが、このバスは思ったほど外見は派手ではなかった。シンプルなツーリストバスである。しかし、運転席にはヒンドゥー教の神々が飾られていてなんだか賑やかだ。その上、運転席にはインド人ドライバーと助手兼交代要員が2人乗っていて、ヒンディーポップスを流して和気藹々と喋りながら猛スピードでぶっ飛ばしている。「インドのハイウェーはすごいですよ。車だけでなく、人も牛も通ります」という話を聞いたことがあるが、頷ける。インドはなんでもOKだ。なんと言っても「ノープロブレム」の国なのだから・・・
ハイウェーには、車線というものがない。バスは道路の好きなところを走っている。対向車が来ても一向に避けようとはしない。派手にクラクションを鳴らして、衝突寸前のところでスッと避ける。チキンレースとはこのことを言うのだろうか?度胸試しもいいが、乗っている乗客の身にもなってもらいたい。こんな広大なインドの片隅で事故には遭いたくない。心で祈りを唱えるが、ドライバーには通じなかったようだ。相変わらず猛スピードでハイウェーをぶっ飛ばす。
マジュヌカティラで買ったミネラルウォーターで睡眠薬を飲む。ハルシオンではないので即効性はない。じわじわと効いてくるのを待つばかりである。後部席は揺れが酷く、長旅には相当堪えるという話だったが、幸い座席は最前列だった。マジュヌカティラの旅行会社のR氏が私を気遣って配慮してくれたのだろう。隣はダラムサラに旅行に行くと思われる中年の欧米人の太ったオバチャンだった。私は窓際で窓を空けて涼しい夜風に吹かれていた。公営バスと違って私設のツーリストバスはいちおうデラックスバスでシートもリクライニングだったが、パソコンを入れたリュックを抱えていたのでなかなかリラックスは出来なかった。なかなか寝つけなかったのはそのせいだろう。それでも時折ふーーーっと眠りに落ち込むことがあったが、バスが停まったり揺れたりした拍子に目が醒めた。ダラムサラはデリーから526km、バスで12時間だ。道のりは遠い。
何度目かに目を醒ました時、空を見ると白々と夜明けを迎えようとしていた。バスはインド平原を離れ、丘陵地帯を走っている。窓から吹き込む風が爽やかだ。
バスが停まると、ドライバー達を含めて何人かの人がバスから降りて思い思いの場所で用を足している。側には店もあり、トイレもあるはずなのだが、青空トイレの方が快適なのだろう。ただし、女性は無理だろうが・・・ドライバーはついでに顔を洗って、歯も磨いている。見るからに気持ちよさそうだったが、隣の座席のオバチャンはその太った身体で私に凭れかかっていたのでリュックを抱えて下車するわけにもいかなかった。オバチャンの睡眠を邪魔するのは可哀そうだ。そのままにしてあげた。
バスはその後、丘陵地帯を抜けて山岳地帯の道に入っていった。この辺り、すでにヒマーチャル・プラデーシュ州に入っているのだろうか?山に這うように造られた道路をバスは進んでいく。ハイウェーをぶっ飛ばしていたスピードは鳴りを潜めた。慎重に運転している様子がこちらにも伝わってくる。そう言えば、ダラムサラに通じる道路で崖崩れや転落事故が何度もあったと聞いていたので自然と身体に力が入った。チベットでギャンツェに向かう時に通った時の道路ほど壮絶ではなかったが、すれ違いは大変だろう。
午前7時過ぎ、バスはいくつかの集落を通り過ぎた。そのたびに何人かの乗客を降ろした。ダラムサラだけ行く人が乗っているわけではないのだろう。何度かそんな停車をした後、バスは完全に停まってしまい、乗客のほとんどが下車の準備を始めた。乗務員もバスから降りて、バスの屋根に載せてあった荷物を降ろし始めている。
「ここがダラムサラか?」
なんだか予想と違っていて、ヒンディー語の文字ばかりで一つもチベット語が見られなかった。チベット人が行き来している様子もない。しかもサイトの写真などで何度も見た山上の町のイメージとはかけ離れていた。荷物を降ろしている乗務員に事情を聞いてみるとダラムサラには違いないのだが、インド人の町ダウン・ダラムサラだということ。アッパー・ダラムサラ=マクロード・ガンジへは途中の道が雨季の大雨で崩れてしまい、バスは登れないのだという。バススタンドから先、道は3方に分かれている。
道が崩壊していてバスがマクロードまで上がれないことはよくあることなのだろう、乗客たちはそれぞれタクシーをシェアして次々とマクロード目指して山道を登っていった。もたもたしていた私は結局タクシーを拾うことが出来なかった。仕方がなく、重い荷物を抱えてタクシーが登っていった山道をとぼとぼと歩いて登り始めた。だが、荷物は重い。それにいくら登っても町らしき存在は、一向に見えてこなかった。それもそのはずである。後で知ったことだが、ダウン・ダラムサラとマクロードは日中30分ごとにローカルバス(料金:3ルピー)が出ていて、所要時間40分だという。重い荷物を持って歩いて登るのは軟な日本人にはそもそも無理な芸当だったのである。
何度目かに一休みして道路に佇んでいると、上から降りてきた一台のライトバンが私を通り越して停車した。窓からインド人が顔を出すと私に話しかけた。
「どこまで行くんだ?」
「マクロード」
「そんな重たそうな荷物を持って本気で歩いていく気か?」
私が如何しようかと思い悩んでいると、「可哀そうに」といった表情をして、そのインド人は車をUターンさせて私のそばにやって来た。
「乗せていってやるよ。100ルピーでどうだ?」
値段はかなり吹っ掛けているのだろうと思われたが、困っていた私には地獄に蜘蛛の糸だった。しかも、私は、まだ完全にインドモードではなく、日本の金銭感覚が残っている。100ルピーといえば約300円である。日本でタクシーに乗ることを考えたら大した金額ではない。ここは頑固に「徒歩」を主張しても仕方がないと思い、そのインド人の車に乗り込んだ。助手席には子供が乗っていて、後部座席にも物が置かれていた。どう考えてもタクシーではなさそうである。いわばインドの白タクだ。
九十九折の山道を車は登っていった。途中、インド軍の駐屯地や、今は廃墟のようになっているが、かつて大英帝国時代のイギリス人の避暑地だったことを偲ばせるセント・ジョン・チャーチがあった。車窓の風景を見ながら20分ほど乗っていると、まもなくバス停の広場に入っていった。町の入り口らしい。ここから道は八方に延びている。
「ここがマクロードだ。あんた、マクロードのどこに行くんだ?」
私の滞在先はチベット人の元政治犯で構成されるNGOの施設である。現地では「9-10-3」として知られているが、日本人にはその1階にある日本食レストランが有名だ。
「ジャパニーズレストランの場所を聞いてくれないか?」
私が頼むと、男は車を降りて、バス広場でたむろしているインド人にあれこれと聞いて来てくれた。男はどうやらマクロードの住民ではないらしい。
「こっちだ」
車はマクロードのメインストリートであるTemple Roadをゆっくりと進んでいった。すでに人々の生活が始まっており、通りを行き交う人が多くなってきたからである。しかも、メインストリートとは言っても道幅は狭い。対向車が来たらすれ違いが大変だ。
インド・ステート・バンクのところで車は停まり、男が振り返って言った。
「この先、車は入れない。悪いがここからは歩いていってくれ」
男に100ルピーを渡すと、車から降りて荷物を抱えて凸凹道を歩いて降りていった。
目指す赤レンガの建物はまもなく見つかった。入り口で日本人らしき女の子とチベットの海老茶色をした僧衣を着た僧侶が話し込んでいた。一応英語で尋ねてみる。
「ここはルンタハウスですか?」
「ハイ」
「中原さんと高橋さんに会いたいのですが」
「ああ、PEMAさんですね。お話は聞いています。ようこそいらっしゃいました」

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