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最終日

2001年11月24日。いよいよダラムサラとお別れする日がやってきた。今夜の夜行バスでデリーへ向かう。残り少ない時間である。使ってないほうのベッドに広げてあった衣類やパソコン一式、書籍やお土産をバックに思いっきり詰め込んで帰りの準備をした。残るは今日一日の予定である。今日は一切の予定は無い。しかしながら、私にはしておかなければならないことがあった。ヒマラヤへのお別れの儀式である。儀式といっても大げさなものではなく、ただ、もう一度あの崇高な姿を目に焼き付けておきたかったのである。
ヒマラヤは84日間のダラムサラ滞在中、いつも私を守ってくれ、ボランティアの仕事が上手くいってないときも私を励ましてくれた。時間ができたらツク・ラカンに行って本堂の前に座りこみ、近くて遠いヒマラヤを眺めていたものである。その都度励まされ、癒されたことは数限りない。そのお礼をしなければ失礼だろう。
天候は乾季の影響か、すっきり澄みわたっていた。空が青い。先日、雪で白くなっていた山々は雪が解けたのだろう、岩肌をさらしていた。窓から見ると屹立した高峰が前山の向こうに顔を出している。朝日を浴びて輝いている雄姿はダラムサラに来たときから変わらない。(最初のうちは雨期で見えなかったが・・)起きればすぐそこにある山がもう見られることはたぶん無理だろう。最後の見納めである。9-10-3のバター茶と蒸しパンをほおばって9-10-3から出かけた。午前中のいちばん綺麗な姿が拝められるだろう。
マクロードのバスターミナルからSwarg Ashram M.I.Road登っていくとヨガ・センターや瞑想センターのあるダラムコットの丘にたどり着く。ここまでの道で群れている猿ともお別れである。9-10-3の部屋の窓辺においてあった胃薬をコイツらに持っていかれたことはあるが、果たして食ったのだろうか?大丈夫かな~~~
午前9時、ダラムコットの茶店をあとに私はひたすら登っていった。最初の頃は、この入り組んだ集落で帰り道豪雨に会って、ぼろぼろの姿で9-10-3まで戻ったことがすでに懐かしい。もうすでに何回も来ている道なので迷うことは無い。山頂までは途中茶店でいっぷくしながらゆっくり登ったので多少は息が切れるがどうってことはなかった、なにせダラムサラ自体がすでに標高1800mなのである。そこから2時間半かけてやっとの到着である。大体標高にして何メートルくらいあるだろうか。空気は澄んでいて、マクロードよりも涼しく感じる。
私はこれで当分の間見納めか~と思い、何枚もシャッターを押してしまった。紺碧の青空の下、オレンジ色で両手を広げているような山や、ダラムサラを守るために屏風を立てている様な山。そのそれぞれが個性的で、ヒマラヤの5000m峰など名前はついていないにもかかわらず、ピークの一つ一つが私に訴えかけているように見えた。
「いつかまたダラムサラへいらっしゃい。そのときはここで再会しよう」
実際、耳で聞こえるわけではないが、心の中からそんな言葉が湧き出してくるのである。できることならこの山頂で一夜を過ごし、朝日に光るヒマラヤの姿を拝んでみたい。
フィルムがなくなるまでヒマラヤを撮っていたのだが、フィルムがもう無くなってしまった。また、昼過ぎになると急にガスが上がってきて雨も降り出しかねない。そこでやむをえず下山するとこになった。帰り道はもうなれたものである。がけ崩れのあった箇所でもすいすいと渡っていけた。ダラムサラ最終日が雨でずぶ濡れになるのはどうしても避けたい。半分駆け足で下山してきて、ダラムコットの茶屋でブラックティーをのんだ。ふと、となりを見ると、よくムーンライトカフェに子連れでやってきていたスイス人の女性2人組とであった。暇つぶしにダラムコットまで散歩に来ているのだろう。
「さっきまで山に登っていてね。今降りてきたところ」
「山腹の茶店開いていた???」
どうやら2人は登ったことがあるようだ。
「今日の夜のバスでデリーに戻るんだ」
「こんどは、いつ来るの?」
まただ、ダラムサラに来ている外国人はこぞってこの台詞を語る。
「いや~~~お金もつかっちゃったし・・・来年か再来年の今頃かな?」
と口では言ったものの、日本の社会はそんなに甘くない。1ヶ月の休暇なんてしてしまったら帰ってきたら自分の席がなくなっている社会である。経済規模だけ見れば世界2,3位にいるのだが、果たしてその原動力としての日本人は本当に幸福なんだろうか?
9-3-3の部屋に帰ってくると、今井の紙切れがドアのところに挟んであった。内容を見るとCAD指導のお礼とレストランスタッフの誕生部に撮ってやった写真の現像料として100ルピーが挟まれていた。彼女は一足先に日本に帰ったのだろう。
部屋代を清算しに9-10-3のオフィスに行くと、何故か宿泊者名簿の中に私が含まれていまい。おそらく、当初、現地のプロジェクトを任せることができるだろうという中原さんも甘い考えで私一人だけ特別扱いになっているようだ。しかし、高橋さんからは部屋代は支払って欲しいと言われていたため、9-10-3のスタッフに説明して、9月1日から11月24日まで滞在していたことを証明して何とかお金は受け取ってもらえた。
その額8400ルピー(2万4000円)。どこかのリゾートのコテージに泊まると一泊この倍以上は取られるであろう。一ヶ月あたり8000円の計算だ。物価の安さに根っからの大阪人の私は感動し、驚いたものである。しかも温水シャワー付きの快適なツインルームだったのだ。シャワー&トイレ共同のドミトリーならその半額で暮らせる。ただし、プライバシーはないが・・・
今後ダラムサラを訪れるという方の為に再度紹介しておこう。
「THE GUCHUSUM MONEMENT OF TIBET 
Jogiwara Road,P.O.Mcleod Ganji-176219,Dharamsala(H.P)」
日本人の間では「ルンタ・ハウス」という名前のほうが有名だろう。
8400ルピーの領収書を作ってもらっている最中に、そこに山積みにされていた「Tibetan Envoy」を手にとってパラパラ眺めていた。この「Tibetan Envoy」はボランティアのマック使いのノリちゃんが作ったのもだが、内容は充実している、表紙はチベット独立運動の象徴、ガワン・サンドルだ。それもそのはず、9-10-3は元政治犯やその家族で構成しているNGOなのだから。
荷物をまとめて日本食レストランでマネージャーの奥さん直子さんがコーヒーとケーキを出してくれた。ゆっくりコーヒーを飲んでいると、ちょうどツェリン・ドルジェが入ってきた。荷物はまとめたものの、入りきらなかったのがベクターワークスのハウツー本である。そのままレストランにおいて帰ってもよかったのだが、所詮CADのマニュアル本である。ちょっとでも役に立ってもらいたかったのでツェリン・ドルジェにやってしまった。
9-10-3のスタッフに挨拶して、ツェリン・ドルジェのバイクに乗ってバスターミナルのほうへ向かった。途中、夕食を食べていなかった私に気遣って食堂でトゥクパとモモをご馳走になった。注文してからヤツは何処かにいく素振りをしていたらまもなく「SAY IT TIBETAN」という本とカセットテープを買ってやってきた。プレゼントだという。おまけに、まださよならではないのにカタを首にかけてもらった。トゥクパのスープに汚れてしまうと思ってカタをはずそうとすると、最後までかけておいてくれと言う。それがしきたりなんだそうな・・・ローカルバスのターミナルからMainRoadへいったところがツーリストバスの停留場だった。何台もならんでいる。まだ、時間があるのでチャイでも飲んでいるとツェリン・ドルジェは私のバスを見つけてくれて案内してくれた。チャイはヤツの奢りである。
そして最後のお別れ。「ダワ・ラによろしく」としか声が出ない。ツェリン・ドルジェとも改めて友情を確認した。そして別れである。彼はバスが見えなくなるまで手を振ってくれた。

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