いよいよダラムサラへ
2001年8月31日。午前8時頃目が覚めた。泊っていたのはデリーの北郊にあるチベット人難民居住区のマジュヌカティラのゲストハウスである。デリーの安宿(安宿と言ってもよいほど安くはなかったが・・・)にしては珍しくエアコンが付いていた。ただしその音は凄まじい。一晩中つけっぱなしにしていたがカタガタ鳴り響いて喧しくて仕方がない。ルームサービスでミネラルウォーターを2本注文すると、その水で日本から持って行った睡眠薬を多めに飲んだ。そうでもしなければ眠れなかったのである。
窓からはヤムナー河の景色が見えた。隣の建物に干してある洗濯物が揺れている。
ホテルの名前は「Wongdhen House」。住所と連絡先は、
H.No.15-A、New Tibetan Colony、Majnu Ka Tilla、Delhi-54
E-MAIL:wongdhenhouse@hotmail.com
ダラムサラのNGOの高橋女史とメールのやり取りをしていた頃、デリーでの宿泊先をニューデリー駅前のメインバザールかマジュヌカティラかのどちらがいいかと聞かれたので、せっかくだからデリーにおいてもチベット難民に触れたかったのでここに決めたのである。
マジュヌカティラヘの行き方は、普通(私の場合は出迎えがあったので違った)ならデリーのインディラ・ガンディー国際空港からデリー市が管理しているプリペイドタクシー(屋根が黄色、車体が黒。デリー空港正面出口を出て右へ100メートルほど行ったところに専用のチケット窓口があり、行き先を言ってチケットを購入)を使えば45分ほどである。渋滞を考慮してもマジュヌカティラまでの金額は250~300ルピーで変わらない。ISBTから北上すると右前方に4~5階建ての建物と、その上にはためくタルチョーを見ることが出来る。道路の右側を北上するとリキシャがたまっているバザールの入り口がある。マジュヌカティラには、宿泊設備、チベットレストランなど、旅行代理店も揃っておりインドのチベット世界の玄関口の様相を呈している。ただし銀行は無いので空港かデリー市内の銀行で両替しておく必要がある。
シャワーを浴びてさっぱりすると、朝食を食べにゲストハウスの1階にあるレストランに行った。さっそくチベット料理のトゥクパ(チベット風うどん)を食べようと思ったが、朝は出していないとのこと。仕方がなくトーストとゆで卵、コーヒーの朝食となった。
チェックアウトの時間は昼の12時だった。デリーでは特にすることがなく、夜7時のダラムサラ行きの私設ツーリストバスの出発を待つばかりだった。またしても時間との戦いである。デリー市内の観光をしようと思えば出来たのであるが、私は観光地と言うものにあまり興味がない。デリーの観光スポットと言えばインド独立の父マハトマ・ガンディーを記念して造られた公園「ラージ・ガート」、1639年から9年の歳月をかけてムガール帝国5代目皇帝シャー・ジャハーンが建てた城塞「ラール・キラー」とインド最大のモスク「ジャマー・マスジット」、ちょっと郊外になるが、世界遺産に登録されている「クトゥブ・ミナール」あたりだろうか?行ってみても良いかとは思ったが、それほど行きたいとは思わなかった。行ったとしても半日だけの駆け足観光になっただろう。それは団体のツアー旅行をする人の旅のスタイルである。私とは別だ。
だから部屋でチェックアウトの時間までテレビを見ながら暇つぶしをすることになったのだが、それも限度というものがあった。何しろさっぱりわからないヒンディー語で放送されている上、インド映画ファンならたまらないであろうドラマもたいして面白いとは思えなかったのである。10時半頃になると退屈の虫が疼き出してきた。
「12時まではまだ時間があるけど、チェックアウトして街を歩いてみよう」
そう思い。フロントに行ってチェックアウトした。一泊の料金は675ルピー(約2000円)。日本のホテルから見れば激安価格であるが、インドでは安宿の部類には入らない。デリーの安宿が集まっているメインバザールのパハール・ガンジに行けば一泊50ルピー(約150円)のドミトリーもあるのである。ちなみにルームサービスで取ったミネラルウォーターが一本15ルピー(約45円)。2本で90円だ。
昨夜、空港まで迎えに来てくれ、ダラムサラ行きのバスチケットも手配してもらった旅行会社はマジュヌカティラの中に小さいオフィスがあった。そこへ行って重たいバック(リュックも相当重かったが・・・)を預け、マジュヌカティラを出て南に歩いていった。途中、オートリキシャやサイクルリキシャの親父が何人も寄って来ては、
「一日デリー観光させてやるよ。安くしてやるから乗らないか?」
と、声をかけて来たが、私はお約束の観光地巡礼は好きではないし、インドのリキシャの相場も知らなかったので断った。また、警戒心もあたのである。しかし、相手も私が日本人だとわかったのだろう、上客と見るとしつこく付き纏ってくる。言い寄ってくるリキシャマン達にその度毎にいちいち「ノーサンキュー」というのも疲れたが、連中も生活がかかっているのだろう、必死に説得しようとする。しかし、私は断固として断った。このあたり、日頃の弱気な部分が退いて強気の私が登場する。私は双子座AB型だ。
ちなみにリキシャの語源は、日本の「人力車」である。元々インドにも人力車があり、日本の「人力車」を真似て「リキシャ」と読んでいた。コルカタ(旧カルカッタ)では数年前まで実際に人が引いていたリキシャがあったらしいが最近では廃止されたという話を聞いたことがある。とにかく、デリーではサイクルリキシャかオートリキシャである。前者は自転車が引いている力車、後者はオート三輪が引いている力車である。このオートリキシャ、インドの他にも似たようなものがあり、タイのバンコクのトゥクトゥク、ネパールのカトマンドゥのテンプ-は有名だ。ネパールではインド文化の影響が強いのか、サイクルリキシャも存在する。料金はいたって安い。それに小回りもいい。
マジュヌカティラの前の道路は交通量も多く、車やバス、トラックなどがひっきりなしに通っていた。車から吐き出される排気ガスが、熱風と攪拌され、空気中に漂い、濁った空気は蜃気楼を形作るようにゆらゆらと揺れていた。酷暑期は去ったといってもデリーはまだ暑い。持っていたミネラルウォーターがだんだん温められ、次第に熱湯へ変わっていった。1つ目の交差点で一休みする。行き交うローカルバスを見ると、まさしく黒山の人だかりだ。さすがインド。人間が多い。ただ、デリー中心部のメインバザール(パハールガンジ)やコンノートプレイスのように暇つぶしのアイテムがあればよかったのだがここには何もない。ショッピングはただ荷物が増えるだけなのでしないと心がけていた。しかも、私は、ご婦人方のようにショッピングで多くの時間を潰せる達ではない。
「行き」のデリー滞在は、特にこれといって書き記すようなことは何もなかった。ただ、待ち時間との戦いである。いや、格闘と言ってもいいだろう。なにせやることがないのである。「帰り」のデリー滞在では、日本文化センターで久々に見る日経新聞のストックを読み漁ったり、日本語検定にチャレンジするインド人の学生に日本語の文法を教えたり、インターネットカフェでメールを書いたりしてなんだかんだと暇つぶしできたのだが・・・
マジュヌカティラに戻ると、そのメインストリートと思われる通りの植え込みに座り込んで、何をすることもなくただボーッと人々を眺めていた。傍らではチベット人のジイちゃん達がなにやらゲームのような遊びをしている。インド人の男は売店に来てはタバコをパッケージごとではなく、銘柄を指定して何本単位で買っていたのが物珍しかった。
小腹が減ってきたので一軒の食堂に入り、トゥクパを食べた。確か20ルピーくらいだったと思う。うどん一杯が60円である。安い。
そうこうしている内に、バスの時刻が近づいてきた。旅行会社のオフィスに行って預かってもらっていた荷物を受け取ると、「オフィスの前で待っていろ」と言われた。そして定刻の7時になるとR氏が手招きして「こっちへ来い」という。彼についていって狭い路地をうろうろした後、マジュヌカティラ北側に隣接する広場に着いた。そこに2台のバスが停まっている。その一つに乗るらしい。広場にはダラムサラに帰ろうとしているチベット人やこれからダラムサラを訪れようとしている欧米人観光客でいっぱいだった。チケットを渡されるといよいよ出発である。荷物はバスの天井に載せられるようなので、バックの方は譲っても、パソコンが入ったリュックだけはバスの中に持ち込もうと思った。振り落とされることがあれば一大事である。バスの乗務員に最初はダメだと言われたが、最後は20ルピー握らせてヤツを黙らせた。インド最初の袖の下である。
バスに乗り込み、リュックを抱えてシートに座り込んで30分したときだろうか?バスはゆっくりダラムサラへ向けて発車した。
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