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9・11

2001年9月12日。朝、いつもの通り9-10-3の地下にある食道に行って朝食をとっていた。たいてい、いつも蒸しパンとバター茶の2つである。インドの中のチベット世界ダラムサラでは何もかもチベット式である。さすがにツァンパはなかったが・・・
蒸しパンは中国の肉饅頭に近いだろうか?ただし、中身は何も無い。いつも冷めていてそんなに腹に入る代物ではなかった。それほど塩味も効いていないので、いつもバター茶で喉に詰め込んでいくような有様だ。日本にいるときは朝食を取るという習慣のなかった私だが、ダラムサラ滞在中は毎朝9-10-3の食堂に行くようにしていた。少しでもチベット人と仲良くなる為である。といってもチベット語でコミュニケーションできるほど私のチベット語は拙い。英語も???であった。それでもチベット人たちと一緒にいると「ほんのり」できるから不思議だ。中にはかつて獄中にいてインドに逃げてきていたチベット人もいたのだろうが、彼らに悲壮感は無い。私がチベット人に惹かれるのは案外そんなところかもしれないと思う。いつも微笑みを絶やさない人々である。
バター茶は聞いたことがある方もいらっしゃるだろう。チベットだけでなく、モンゴルやアジアの遊牧民族の飲み物としてよく知られている。チベットのバター茶は、その作り方から、チベット語でチャスマ(チャスとはかき混ぜること)とも言い、発酵した茶葉を固めた磚茶を削って煮だし、これにヤクや羊から作ったバターと塩(ミルクをいれる場合もある)を入れて攪拌するものである。バター茶を攪拌するためにかつては「ドォモ」という円筒状の攪拌器を使っていた。今でもチベット本土の田舎に行けば各家庭に一つはあるだろう。棒でつくようにしてかき混ぜ、筒の口からお茶が飛び出さいようにするのが肝要だ。かつて、バター茶を作るにはかなりの力の要する仕事だったが、現代では多くの家庭がドォモの代わりに電気ミキサー使うようになり、労力もいらなくなり、手軽に作ることができるようになっている。また、地方によってもその作りかたは異なり、バターと塩にミルクを加える、ミルクと塩にバターを加える、バターと塩をいれるだけで攪拌しないものと、さまざまだ。9-10-3で作っていたのはおそらく電気ミキサーで作ったものだろう。毎朝行くとヤカンに大量のバター茶が用意されている。チベット人は一日にお茶を何杯も飲むのは、単純に水分を補給するということではなく、高地生活で不足するビタミン、脂肪分、蛋白質などを補うための、欠かすことの出来ない栄養源になっているからである。高地で暮らす民族の智慧なのだろう。バターはチベットの強い太陽光線から肌を守ってくれる。子供の肌を守るために顔にバターを塗る習慣もあるくらいだ。
その日もいつものように蒸しパンをかじりながら何杯もお代わりをくれるバター茶(実を言えば私はこのバター茶は苦手である。チャイなら何杯も飲めたのだが・・・)飲みながらテレビの「ナマスカ・・・」で始まるヒンディー語のニュースを見ようと思っていたら、その日の様子は違っていた。まず、めったに見ないBBCのニュースが流れていた。そしてそこに映し出されている光景を見て愕然としたものである。
「NYの世界貿易センターのツインタワーに飛行機が突っ込んでいっている」
そしてその後、ツインタワーは脆くも崩壊する。まさか飛行機がハイジャックされてその飛行機がビルに突っ込んで乗客乗員諸共自爆テロを行うとは想像を越えていた。その映像が繰り返し放映されていたのである。スカイスクレーパー(超高層ビル)は現代の建築技術の粋を集めた建物だ。その建物が、飛行機がぶつかって崩れ去ったのである。設計時、地震や風力の計算は行っていたもののまさか飛行機が追突するとは建築家も想像していなかったにちがいない。それにしてもあっけない崩れ方だった。
一緒に見ていたチベット人達も事の重大さに真剣なまなざしでニュースを見ていた。いつものジョークを飛ばしたり、笑いあったり、悪ふざけしている様子は微塵もない。皆の表情は真剣そのものだった。みな、食いるようにテレビに夢中になっていた。
「これはえらいことになったな」
誰もがそう思っただろう。私もその一人である。それ以上に、あのツインタワーには私自身、思い出が詰まっているのである。思い起こせば17年前の16歳の頃、高校の図書館で建築の写真集を毎日見ていた。ル・コルビジェやフランク・ロイド・ライトらの写真集とともに、あのツインタワーを設計した日系アメリカ人の建築家ミノルヤマザキ氏の写真集もあった。むかしから超高層ビルが好きだった私は、そのミノルヤマザキ氏の写真集やミース・ファン・デル・ローエの写真集を食い入るように眺めていたものである。もっと言えば、後年、私が建築の設計を志すきっかけになったのがあのNYの世界貿易センタービルやミースのシーグラムビル(NY)であった。その思い出がいっぱい詰まったビルが一瞬のうちに崩壊したのである。それだけにあの映像はショッキングだった。心の動揺は激しかった。思い出が消えたのである。それも一瞬にして。
テロリズムに関しては、私は少しばかりシンパシーを感じていた。追い詰められた弱者が最後の手段として取るのがテロやゲリラ戦である。金銭目的の誘拐や極端なイデオロギーによるテロやゲリラ戦に関して共感はない。しかし、少数民族が迫害を受けてやむにやまれず行った暴力行為(ただし犠牲者は出さないことが前提である)にはそれ相当の覚悟と決意があるであろうとは思われる。そのように考えるようになった背景には、昔読んだ「東アジア反日武装戦線」のルポルタージュの影響が大いにあった。
「狼」のメンバーであった大道寺将司氏達は69年、70年の闘いが機動隊の圧倒的な力の前に屈したという経験を踏まえ、武装闘争によってこそ真の国際連帯を形成できるのだという確信から71年から爆弾テロを実行している。ただし、その思想的背景は常に社会の底辺で搾取されている人民への連帯やかつての日本軍国主義によるアジア侵略への総括、侵略された少数民族への共感があった。しかし、その彼も「無差別テロ糾弾」への同調は拒否するとはのべているものの、「六千名を超える人たちの命を奪った9・11自爆は批判されなくてはなりません。ハイジャックされた旅客機に乗り合わせた人たちの死は不条理としか言いようがありませんし、世界貿易センタービルで被害にあった人たちの中には、清掃労働者や臨時雇いなど米国の繁栄の恩恵を直接的に受けていたわけではない人たちも多く含まれており、胸が痛みます」と述べている。
あの9・11のテロは大道寺氏の言う武装闘争なのだったのだろうか?疑問である。
同じく大道寺氏は「世界における貧富の格差は天文学的に広がっています。従って、貧困と不公正に喘ぐ「南」の人たちにとって、米国が体現する「北」の豊かさは、二〇名近くもの者たちに自爆を決意させるほど憎悪を募らせるものになっているのです」と言うが、果たしてそうだったのだろうか?極端なイスラム原理主義を唱えるアフガニスタン(当時)のタリバン政権とその後ろ盾を受けて活動したアルカイダの目的は南北格差の是正などではなく、イスラムによる世界制覇に思われて仕方がない。だたし、攻撃を受けたからと言って武力で報復することには常に反対の立場を私はとっている。
ダライラマは事件の直後、米国同時多発テロに際してブッシュ大統領への書簡を送った。
この声明文の中で最も共感した一節は
「暴力はいたずらに暴力の輪を広げるだけだと確信しております」
である。インドの偉大なマハトマ・ガンディーの非暴力主義を提唱して1989年にノーベル平和賞を受賞したダライラマは暴力と言うものの確信をついていると思われる。
「武力による報復は暴力の連鎖を生み出す」
アメリカ・イギリスによるアフガニスタン攻撃は侵略戦争である。裁かれるのは9・11の首謀者達であり、決してアフガニスタン人民ではない。しかし、アメリカは戦後一貫してこのような報復・解放を旗印にして侵略行為を行っている。ヴェトナムしかりイランしかりパナマしかり、そして最近のイラクしかりである。
再び大道寺氏の言葉を拝借する。
「精密誘導兵器で民間人は傷つけないと言いながら、国連のNGO事務所、赤十字の倉庫、病院、モスク、バス、民家を次々に「誤爆」し、公表されているだけでも千名を超える人々を殺しています。そして、米政府高官は、こうした「誤爆」を残念の一言で片づけています。9・11自爆がテロであり、関与した者たちが裁かれるべきであるならば、アフガン衆を殺戮しているブッシュやブレア、そして、爆撃に参加している米英軍のすべての将兵が裁かれるべきでしょう」
ダライラマは9月12日。ダラムサラ=マクロードガンジのテクチェン・チューリンにおいてテロの犠牲者を追悼する特別法要を行った。残念ながらその法要に参加することはできなかったが・・・さらに、ダライラマのパレスを一回りするリンコル(巡礼路)をキャンドルをもって回るキャンドルマーチが行われたようである。その様子は参加した日本人女性からパーティーのときに話を聞いた。どちらも情報を知っていれば参加したのだが、灯台下暗しとはこのことを言うのだろうか?マクロードにいながらまったく情報が入ってこなかった。この後、数日、マクロードは追悼一色になった。

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