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19.夜のクラブ活動

別のところでも書いたが、私が初めてハウスミュージックを体験(聴くというより体験と言った方がふさわしい)したのは、1976年に雑誌「ロックマガジン」を刊行し、KBSラジオ「ファズ・ボックス・イン」やラジオ関西「マジカルミスティツアー」で通好みの音楽を紹介していた阿木譲が大阪のアメリカ村でやっていたレコード店「Schallplatten Neu」で、1989年のことである。その時、かかっていたのは、Technotronic の「Pump Up The Jam」というハウスミュージックとしては若干オーバーグラウンドでヒットした曲であった。また、それと前後して、イギリスのインダストリアル・ミュージックのバンドPsychic TVがアメリカで流行っていたハウスミュージックからの影響を受け、その後、世界的に知られるようになったアシッドハウスのアーティストのうちでも、もっとも過激な存在として活動を続けていた。そうした情報は、私が高校・浪人時代に愛読していた雑誌「FOOL'S MATE」でも知ることになるが、直接的に当時の東京のクラブシーンに触れたのは、1990年に通巻100号を機に洋楽専門誌と邦楽専門誌に分割され、その洋楽専門誌の「MIX」を治験バイトの最中に見てからだった。当時の東京のクラブシーンは、渋谷に「CAVE」、芝浦に「GOLD」ができて、それまでのディスコとは一線を画するクラブカルチャーが出来始めていた頃である。それ以前にも、石原智一のプロデュースで原宿にできた「ピテカントロプス・エレクトス」や、村田大造のプロデュースで西麻布に「P.Picasso」が出来ていたり、前触れ的な動きはあったものの、ブレイクしたのは1989年だったように思う。
とくに「GOLD」は、「Tsubaki House」、「Club D」、「Turia」など、時代を象徴するディスコを手がけて来た佐藤俊宏の手によるもので、7階建ての倉庫ビル全てをクラブにした大箱で、入り口には服装チェックもあり大勢の客が常時列を作って待っていてエントランスをくぐると、1Fには当時学生だった村上隆も参加したニューヨークのアーティストグループTODTによる鉄屑の巨大オブジェが設置されたギャラリーが、2Fはバーカウンターやメイクアップルーム、フードコーナー付のサブ・フロア、3,4Fの吹き抜けのメイン・フロア、5Fは様々なイベントが催されたLove&Sex、6FのYoshiwaraには東京タワーを一望できるジャグジー付き露天風呂があるカラオケBar(VIP)、7FはイベントスペースのUrashimaという、それまでの日本のディスコとは全くコンセプトの異なる巨大な最先端ナイト・カルチャーを詰め込んだクラブだった。「時代はディスコからクラブへ!」な勢いと新鮮さが「GOLD」には詰まっていた。客もモデル、ミュージシャンといった芸能系やファッション系のいわゆる東京のカッティング・エッジな層が集まり、音楽もニューヨークから最新鋭のサウンド・システムも選曲も仕込み、巨大スピーカーからガラージやディープハウスが中心に選曲され、ニューヨーク帰りでディレクターを勤めた高橋透をはじめ、レギュラーの木村コウ、DJ EMMAといったDJ達も人気となり、さらにニューヨークから多くの大物DJ達を招聘し、当時のニューヨークを実際に体験できるクラブだった。

「MIX」を読んでいると、オープン間もないのに「GOLD」に白けてきていた人のクラブレポートも載っていて、そうした人々の間では、大阪の1989年、大阪堂山のPIERROTで始まった、N.Y.のピラミッドやコパカバーナのクラブスタイルを踏襲したワンナイトスタンディングのエンタテインメントパーティーの「DIAMONDS ARE FOREVER」が注目されていた。私も後年、麻布の「エンドマックス」で開催された「DIAMONDS ARE FOREVER in TOKYO」に遊びに行ったり、大阪に帰ってきてからは、京都の「CLUB METRO」で今も続いている「DIAMONDS ARE FOREVER」に何度も足を運ぶことになる。2000年以降、クラブがつまらなくなってあまり行かなくなったが、「DIAMONDS ARE FOREVER」は今でも行きたいパーティーである。
「DIAMONDS ARE FOREVER」のオーガナイズは、DJ LaLaとシモーヌ深雪。その日のテーマに合わせたDragQueen(ドラァグクイーン)によるゴージャスかつアヴァンギャルドなショーの数々と、DJたちによるダンスミュージック、最新のHouseやCircuit、70'sディスコソウル、80'sニューウエーヴから現代音楽によって構成された空間は、時代のトレンドに関係なく見る者すべてを魅了する。幻惑的で非現実なオペラ的展開のディレクションと、開催当時より密接な関係にあるアート/芸術との複合が、稀有で特異な刺激性を生み出す結果となり、そのユーモラスな結果を楽しみにしているファンも多い。初期のDJにはヨージ・ビオメハニカやアーバンダンスの松本浩一が、DragQueenにはナジャ・グランディーバやダイアナ・エクストラバガンザなどがレジデンツとして在籍していた。80年代、90年代、00年代と国内/海外を問わずに招聘され、その先々のリクエストに答えてきたが、現在は京都神宮丸太町の「CLUB METRO」に腰を据え、エキセントリックでストレンジなパーティーを毎月末に開催している。

私がクラブに行くきっかけになったのは、六本木の英会話のスクールに通うようになってからである。はっきりいつだったかは思い出せないが、1989年から1990年に代わるか代わらないかくらいの頃だった。何気なく受けた英会話のレッスンで、自己紹介の流れで音楽が好きだと答えると、
「どんな音楽が好きなの?」
「ノイズミュージック。例えばジョンケージとかシュトゥックハウゼンとかホワイトハウス」
インダストリアル・ミュージックって言ってもわからないと思い、そういうと、
「ホワイトハウス!!!じゃあ、スロビング・グリッスルやジェネシス・P・オーリッジは?」
「Yes!!!Yes!!!」
そんな感じでレッスンは盛り上がった。
その英会話講師はデヴィッド・リチャードソンと言って、英会話講師の他にハイパーデリック・ビデオというコンビでVJと言って、クラブでDJの音に合わせて映像をミックスさせる仕事をしていた。そして、彼から渋谷のクラブ・クワトロでやるパーティーに誘われた。クラブ・クワトロは厳密にはライブハウスだが、初めてのダンスパーティーだった。その時の様子を撮ったビデオも作ったらしく、私もダビングしてもらうと、ぎこちなく踊る私が映っていた。その時のDJチームは、テクノハウスもプレイするが、どちらかと言えばニュービートやエレクトリック・ボディー・ミュージックを主にプレイしていた。それ以降も、渋谷センター街の外れにある地下のレストランを借り切って週末だけクラブパーティーを開催していて、私もよく誘われた。
私のクラブデビューは渋谷の「CAVE」が初めてである。初めて入った「CAVE」のダンスフロアは大きくはないが真っ暗で、DJ K.U.D.Oがテクノハウスを中心に爆音でダンスミュージックをプレイしていた。

「CAVE」はその後、英会話学校で仲良くなった友達と毎週のように通ったのだが、いつの間にか営業方針が変わったのか、女性同伴じゃないと入れなくなって、一時期、途方に暮れていたのだが、アルバイトの家庭教師に向かう途中に立ち寄った書店で立ち読みしたクラブ系の雑誌で、六本木の「Razzle Dazzle」というクラブでアフターアワーズパーティーをやっているのを知って、以降はそこに通い詰めるようになった。

深夜2時以降に入るとノードリンクだが1000円だったので、貧乏学生の味方である。問題は、深夜2時までどうやって時間をつぶすかだが、英会話学校のラウンジは10時まで粘れる。それ以降は、六本木のショットバーで時間をつぶすか、お金に余裕のあるときは、西麻布の霞町の交差点のところにある「328」という老舗のクラブでよく2時まで時間をつぶした。

その後、「Space Lab YELLOW」ができたり、「MANIAC LOVE」ができると、そのあたりに通うことになり、もちろん「GOLD」にもよく行った。

学生時代はテクノが好きだったが、年とともに王道ハウスやガラージ・クラッシックが好きになっていく。

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