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今里と芸人さん

2013年4月26日
友人の電話で起きたのが午前3時だった。電話がなかったら仕事に遅れるところだった。4月の24日と25日の日記を書いていなかったことに気付いて日記を書き始めたのだが、あっという間に午前4時になったので仕事に行った。
一通り新聞を配り終え、友人のマンションに注文してあった靴を取りに行って、帰ってきたのは午前5時過ぎである。そこから昼間に買っておいた「SUPER PRIME 糖質50%オフ」500mlを飲みながら再び日記を書き始めた。朝から酒だが、仕事終わりのお疲れさんだ。酒の神に許してもらおう。
書く事がたくさんあったことと、2日分の日記を書かなければならなかったりして、思ったより時間がかかってしまった。もう夜明けである。外がどんどん明るくなってきた。書き終わったのが午前10時。徹夜したくせに全く眠気はなかった。
ちょっと空腹感を感じ、食料がなくなってしまっていたので近所のスーパー玉出に行く。
そのスーパー玉出の今里店に行く途中、「Ms」の常連のKちゃんとばったり出会った。向こうはこれから出勤、こちらは徹夜明けの食料買い出しである。
スーパー玉出とは、大阪と兵庫で展開している生鮮食品、加工食品の販売を中心としたスーパーマーケットである。大阪府に53店舗(うち大阪市内に32店舗)・兵庫県尼崎市内に1店舗を展開。年商は約450億円。安売りや派手な外装、24時間営業など特徴ある店舗を運営し、大阪ならではの商売の典型例として、テレビ番組の取材を受けることも多い。
営業方針としては、徹底した低価格路線を貫き、随時開催される「1円セール」がよく知られている。但しこれは、1000円や2000円以上の買い物をした客について特定の商品を1点限り購入できるなどの制限がある。これとは別に牛肉や豚肉などの一部を「1グラム1円」で売っているものがあり、こちらについては特に制限なくどれだけ買っても1グラム1円で買える。貧乏人の味方の激安スーパーだ。
その後、ちょっと腹ごしらえをしたあと、区役所に手続きに行き、帰りに「SUPER PRIME 糖質50%オフ」500ml2缶と烏龍茶2Lを2本買って帰った。流石に寝ていなかったから疲れていて、帰宅すると同時に睡眠薬のフルセットを服用し、「SUPER PRIME 糖質50%オフ」500mlを飲みながらテレビを見ていると、いつの間にか眠ってしまっていた。
起きたのは午後18時前だった。今日もまた「Ms」に行く時間である。「Ms」に行くと既に顔なじみの常連が顔を揃えていた。仕事帰りに立ち寄った一見さんのサラリーマンもいるが、「Ms」の常連客は、今里で働いているか、または今里の住民である。「Ms」の看板メニューになっている今里焼きそば。今里とはどういう土地なのだろうか?
今里は、大阪府大阪市東成区にある大阪市営地下鉄今里駅および少し離れたところにある生野区の近鉄今里駅周辺一体の地域の名称である。
狭義の今里地域はかつての東成郡南新開荘村(神路村)の一地域であり、旧大字大今里・東今里・西今里だった地域の総称である。現在では一般に東成区と生野区にまたがった広い地域を指す。現在は、東成区に大今里・大今里西・大今里南・東今里(東今里は城東区南端に接している)、生野区に新今里の地名がある。過去には、西今里町や大今里本町という地名も存在した。ちなみに私が住んでいるのは大今里南である。
この地は、かつて室町時代の頃に「新開荘」と呼ばれた荘園の一部であり、さらに平安時代まで遡ると玉造江とよばれた荘園の一部地域であった。新開荘は文禄三年の太閤検地の際に一旦廃止され、大今里・東今里・西今里といった村に分割される。明治以降、これらの村々が南新開荘村としてまとめられて旧村名は大字名として存続した。南新開荘村は1916年(大正5年)1月に神路村に改称、1925年(大正14年)4月に大阪市に編入されて東成区の一地域となる。
近鉄今里駅付近周囲は、田園地域であったが、後述の明治以降の交通整備、1925年(大正14年)4月に大阪市に編入され、急激に都市化が進み、人口が増加する。
戦中戦後にかけて、5代目笑福亭松鶴、4代目桂米團治らが居住し松鶴の自宅「楽語荘」を中心に活動し、若き日の6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、5代目桂文枝、3代目桂春團治らの修業の地でもあるなど、今里界隈は戦後の上方落語にゆかりが深い。また、浪曲会で一世を風靡(上方園芸の殿堂入り)した冨士月子によって、昭和5年、今里に寄席二葉館が新築され、浪曲・落語・漫才等の演芸常設館として、後進の育成に当った地としても知られる。
当時の演芸・芸人というと酒である。ちょっと無理やりのこじつけであるが・・・。
酒好きの芸人ではかつての岡八朗がいる。彼の酒にまつわるエピソードは興味深い。その風貌から「奥目の八ちゃん」と親しまれ、「くっさー」、「えげつなー」、「隙があったらかかってこんかい!」等のギャグを多数持つ。
新喜劇では、調理帽をかぶった昔ながらの大衆食堂の店主、はちまきにシャツ、腹巻、ニッカボッカの工事現場の労働者などといった出で立ちで登場。二枚看板の花紀京とは特に息の合ったかけあいを披露して、多くの新喜劇ファンの笑いと涙を誘った。
しかし舞台上での立ち振る舞いとは逆に、実は極度のあがり症で、出番前の極度の緊張を紛らわすために多量の飲酒することが多くなり、また私生活でも「一にも二にも三にも健康法は酒です」と本人が語る程の酒好きであった。結果的にこれが祟り、長年アルコール依存症を患うこととなった。またアルコール依存症の他にも私生活でのトラブルも多く、30歳で結核を患い、1993年(平成5年)には胃癌、1995年(平成7年)には急性膵炎、1996年(平成8年)には自宅で転倒し脳挫傷に、さらに妻の自殺、長男(アルコール依存症だった)の急死と不幸が続いた。
アルコール依存症克服後も娘の市岡裕子に会いに渡米した帰りの機内で飲酒し、これを知った市岡裕子に絶縁を宣言されたこともあった。また脳挫傷の後遺症は記憶障害という喜劇役者としては致命的なダメージを背負うことになり、台詞が覚えられず、以後事実上の引退状態になってしまった。

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