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6.母子で巡った初めての函館

函館空港のターミナルビルから外へ出ると、そこには憧れの北の大地が広がっていた。 横津岳(だったと思う)は雪を冠り、道路のあちこちにも雪が残っていた。私にとっては北海道初上陸である。期待は否が応でも高まるではないか。
「さすが北海道やな~~~。まだ雪が残ってるわ」
と母としみじみ語り合ったものである。
「お~~~寒む~~~う!!!」
たしかこれが母の第一声だったと記憶する。これを読むと母子は仲が良さそうに思われるかも知れないが、決してそうではない。息子の方はこれからの親の目が届かない生活にワクワクドキドキしていた。念願の夢が叶ったのだ。
客待ちしているタクシーに乗り込んで、まずは学校の下見に行く。 学校は湯の川温泉街を通り抜け、比較的大きな道路を上っていったところ、日吉町にあった。今ではたぶん付属の中学校であろう鉄筋コンクリートの校舎が昔ながらの校舎の目の前に建っているが、当時はまだピンク色の壁と赤いトタン屋根に彩られた木造2階建ての校舎だけが建っており、前庭が大きく広がっていた。背後は3階建ての寮だ。 我が母校を初めてこの目で見たときの率直な感想は、
「北海道は土地が広いから学校も広々してるな~~~」
である。大阪の学校ではこんなにゆったりとした土地の使い方は出来ない。何せグラウンドは400mフィールドにラグビー場、野球場があって、なおもまだ敷地に余裕があるのである。しかも正面玄関前には広い前庭があった。
後部座席に乗せた客がどうやら函館、いや、北海道に来たのが初めてだと察したタクシーの運チャンは商売気を出して、ものすごく嬉しそうに呟いた。
「お客さん、函館は初めてですか?よかったら半日あちこちご案内しますよ。」
(これは決して北海道のタクシードライバーを非難しているわけではない。大阪のタクシーの運チャンなら間違い無く言う台詞である。念のため)
金に細かい関西人(生まれは九州の佐賀だが・・・)の母は、
「お幾らくらいですかね?」
と、すかさず、且つ、しっかり確認するような口調で突っ込んだ。
「まあ、7,000円くらいですよ。」
(なにせ、21年前の記憶である。この辺の細かい数字は無視して頂きたい)
運チャンは自信たっぷりにそう語ったが、真っ赤な嘘であったのが後でわかる。
入学式・入寮式は明日である。今日一日は何も予定は無い。ただ予約してあった湯の川温泉の旅館に泊まって明日を待つだけだった。
「7,000円で半日観光出来るなら安いもんやな。」
母子で頷きあうと、後は運チャンに任せることにした。最初に連れて行ってもらったところは学校から近いトラピスチヌ修道院である。
明治31年(1898)、フランスから派遣された8人の修道女によって創設された日本最初の女子修道院であり、約70名の修道女が牧畜や農耕を営みながら,敬虔な生活をおくっている。敷地内売店では修道女が作ったバター飴などを販売している。内部はもちろん非公開である。見学できるのは売店だけだ。
タクシーを降り、レンガ造りの外観を見ながら手前に建っている売店を見てまわると後は見るものは無い。背後には高い塀があって外界とは隔絶されている。塀のむこうにはまさに「女の園」が広がっている。そう思うと覗きたくなるのが人情だ。うふふ・・・ なんとか塀によじ登って覗こうとするのだが敵は難攻不落である。すると、
「あんたアホか!!!女風呂覗くようなまねはやめとき!!!」
と母に説教された。当たり前である。
 その後、タクシーに乗り込むと一路函館中心街へと車は向かった。
海岸沿いの道路をしばらく走ると、タクシーは函館駅前に出た。通りには市電(チンチン電車)が走っている。市内の建物も関西とは全然違う。物珍しさが手伝ってずっと外の景色に見入っていた。
「このあたりで毎朝、朝市が開かれているんですよ」
と運チャンは語った。さすが港町だ。
当時は寂れた赤レンガ倉庫だった金森倉庫の前に立ち寄って、坂道を上っていった。 ちなみにこの金森倉庫、明治末期に函館の最初の営業用倉庫として建造された老建築であるが、現在ではそのままの外観を活かして海鮮レストラン・ビアホール・ショッピング街・多目的イベントホールとして再生し、観光客で賑わうスペースとなり、函館のベイエリアとして今では立派な観光名所である。後年、函館を社員旅行で再訪した折、大幅に遅刻した私は羽田から一人函館に飛び、母校を見学した後、市電に乗り換えてここで定刻に出発したメンバーに合流した。
 坂を上った元町界隈は、「旧函館区公会堂」や「函館ハリストス正教会」、「カトリック元町教会」、「旧イギリス領事館」、「聖ヨハネ教会」などの歴史的な洋風建築が建ち並んでおり、どこか神戸の北野町を彷彿とさせる風情があった。ここは今でも大好きである。
 「旧函館区公会堂」は明治43年(1910)、日本人技師により建てられた明治を代表する木造洋風建築物であり、北海道特有の木造2階建ての擬洋風建築でアメリカのコロニアル風洋館で札幌の豊平館と並んで、明治期の洋風建築として注目される。左右対称のポーチを持ち、回廊で結ぶ中央にベランダを配し、左右のポーチにもベランダを持つ。屋根は桟瓦葺きで屋根窓を持つ。
 「函館ハリストス正教会」は、「主の復活聖堂」が正式名称である。その名の通り、ハリストス(キリストのギリシャ語読み)の復活を記念する聖堂である。日本正教会の教会であり、東日本主教区に所属する。日本正教会の東日本主教区は北海道・東北地方を管轄している。函館ハリストス正教会は北海道に所属する教会の中でのみならず、日本正教会でも伝道の最初期からの歴史を持つ最古の教会の一つである。1983年、国の重要文化財に指定された。これは大正時代の建築物としては全国で二番目の指定である。
「カトリック元町教会」は、江戸時代末期にフランス人の宣教師が建てた仮聖堂がはじまりで、1876年(明治9年)に創建された。その後、火事によって焼失したが、 1910年(明治43年)にレンガ造りの建物として再建された。しかし、再び火事で焼失した。現在の建物は、1924年(大正13年)に、焼け残ったレンガ造りの外壁を使用して再建されたものである。六角形のとがった塔や風見鶏のあるゴシック様式の建物で、聖堂内部の祭壇は、ローマ法王ベネディクト15世より贈られた日本で唯一のものである。
「旧イギリス領事館」は、函館が国際貿易港として開港した1859年(安政6年)から75年間、ユニオンジャックをかかげ続け、異国情緒あふれる港町函館を彩ってきた。数回の火災にあったのちに再建されたが、再び火災により焼失し、現在の建物は1913(大正2)年、イギリス政府工務省上海工事局の設計によって竣工し、1934年(昭和9年)に閉鎖されるまで領事館として使用されていた。1979年(昭和54年)に函館市の有形文化財に指定され、1992年(平成4年)の市制施行70周年を記念して復元し、この年から開港記念館として一般公開されている。
「聖ヨハネ教会」は、1874年(明治7年)に、イギリスの宣教師デニングが函館にやってきて伝道をはじめ、4年後の1878年(明治11年)に英国正公会の日本教会として聖堂が建てられた。この教会は、度重なる火災で移転し、現在の建物は、1921年(大正10年)に再建され、1979年(昭和54年)に改築された。 
その後、外国人墓地を見に行ったのだが、そこから見えた函館ドックはその昔、文明開化や高度経済成長期のシンボルだったのだろうが、すでに往年を過ぎており、その姿はどこか寂しげだった。
「寂れた港町やな~~~北国ってこんな感じかな???」
と、思ったものである。
この辺りにも、明治34年(1901年)建てられた関西風商家の建物である「太刀川家住宅・店舗」や日本最初のロシア領事館として1906年(明治39年)竣工し、幸坂の最高地点付近に建つレンガ造りの和洋折衷の建物である「旧ロシア領事館」、日本国内で唯一現存する清朝末期の建築物。中国人の集会場として建設され、現存する建物は函館市在住の華僑たちが中心となって資材はもとより設計者や技師も中国から集めて建設され、1910年に完成した「中華会館」、大正初期のルネッサンス様式の洋館。函館を代表する実業家の一人で、函館区公会堂の建設資金の大半を寄付するなど篤志家でもあった相馬哲平の相馬合名会社事務所だった「相馬株式会社」など歴史的建造物がある。しかし、車の中から説明は受けたかも知れないが、見学した記憶はない。
最後は「五稜郭タワー」に行ってこの運チャンとはおさらばした。
ここまでの運賃、12,000円。
「やっぱり運チャン、嘘ついとったやんけ!!!」
母も「話が違うんじゃないの?」という表情はしていたが、しぶしぶ料金を支払った。
「五稜郭タワー」は大阪で言えば「通天閣」だろうか?今では建物高さ98mの新タワーが建っているが、私たちが行った時はまだ1964年(昭和39年)12月に五稜郭築城100年を記念して建てられた高さ60mの旧タワーだった。おそらく地元の人は登らないだろう。上から見ると五稜郭の特異な城郭の造りがはっきり見えるがそれだけだ。ちょっと何か食べようかと言うことになって、ガランとしたカウンターの食堂に入った。ここで初めて「イカ・ソーメン」なるものと出会う。
「五稜郭タワー」を出ると、後は湯の川温泉の今夜の宿に向うだけであった。

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