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公務員宿舎

2001年9月25日。前日の夕食の時、建築家の中原さんが
「亡命政府の公務員宿舎の基本設計を頼まれたんだが、やってみないか?」
と言った言葉に二つ返事で、
「やります。是非やらしてください」
と答えた私はこの日、中原さんのバイクが来るのを待っていた。ダラムサラは山の斜面に作られた町である。そのため坂が多い。町の大きさは小さいのでマクロードだけなら歩いても30分くらいですべてまわれるのだが、ちょっと離れたところに行くにはどうしても坂道の上り下りがついてくる。しかも、傾斜は急なので途中で何度も休憩しないととてもじゃないが身体がついてこない。やはり1800mという標高も影響しているのだろう。ちょっと坂を登るだけで息が切れる。高々1800mでも高度障害が出るものなのだろうか?
チベット亡命政府(正式名称は中央チベット行政府 CTA =Central Tibetan Administrationと言う)はマクロードからダウン・ダラムサラに向かう途中のカンチェン・キション(GangchenKyishong=チベット語で「雪国の喜びの谷」の意)にある。正確な住所は、Gangchen Kyishong,Dharamsala-176215 Distt.Kangra H.Pだ。中央チベット行政府CTAはチベットにおけるチベット政府の延長として、1959年4月29日ムスーリーに設立され、1960年5月にインド北西部のダラムサラに移された。
カンチェン・キションには中央チベット行政府 CTAの各役所をはじめ、議会や図書館(チベット民族蜂起とそれに続くダライラマのインド亡命に際してチベット本土からもたらされた貴重な仏像などを展示している資料館が併設されている他、午前に2回、仏教講座が開かれており、私は後にこの仏教講座に日参することになる)があり、また近くにはチベット本土ではデプン僧院の傍にあり、チベット政府の神託官を擁するネーチュン僧院やメンツィ・カン(Men-Tse-Khang=チベット医学暦法研究所)がある。
中原さんのバイクの後ろにまたがってカンチェン・キションの門を潜ると、前方から付添い人に掴まって歩いてくる20歳前後の女の子がやってきた。しかし、その年齢にしては頭がボーっとしているような感じで、中原さんが話しかけてもうつろな答えをするばかりであった。どうやら何か訳ありのようだ。
「あの子はね、チベットにいるときデモに参加して公安に掴まり、監獄で拷問を受けたんだよ。その後遺症で頭がおかしくなっちゃってね・・・」
チベットでの政治囚に対する拷問は醜聞を極める。おそらく彼女も相当酷い扱いを受けたに違いない。顔だけ見ると可愛らしい女の子なのだが、その背景にはとても言葉では表現しきれないほどの悲しみが存在しているのだろう。
チベットの拷問被害者に会うのは何回目だろう?最初に出会ったのは2000年の11月にアムネスティーインターナショナルの拷問禁止キャンペーンの一環でチベットの拷問被害者のスピーキングツアーであった。そのとき招かれていたチベット人は元僧侶のガンデン・タシと現役の尼僧ケルサン・ペモだった。そしてダラムサラに来てから数日経たとき、9-10-3の施設に寝泊りしていた老女も拷問被害者であった。それだけでなく、9-10-3自体も元政治犯のNGOなのでメンバーは多かれ少なかれ拷問の被害は受けているのだろう。チベットの拷問被害者を目の当たりにして、改めて自分はチベット問題の最前線にいることを自覚させられた。
「役所の人間と打ち合わせする前に現場だけ測っておこう」
カンチェン・キションの通りに面した現場に行ってみると、そこは老朽化した共同住宅と倉庫があるところだった。こりゃ古い。立て替えなきゃ。
現場に行ってみると、役所の人間らしき人物が先に来ていて、巻尺を用意していた。だが、現場を測ると言ってももちろんトータルステーションやレベルがあるわけじゃない。巻尺とスティールメジャーだけが頼りである。どんなに正確に測っても測量と呼べる代物ではない。多少の誤差が許されるところはさすがインドである。細かいことは気にしないのだろうか?日本では土地の所有の問題が大きく、境界の画定はミリ単位まで正確に行うのが当然だが、ここでは違うようだ。そもそもインドに来て測量機器を目にしたことがない。レベルの測定も、後々土工事の費用に跳ね返ってくるので正確にしたいが、如何せん機器がない。仕方がないのでアバウトな計測だけにした。
大体の寸法を測ると、いよいよ役所の人間と打ち合わせることになった。担当していたのは、CADの授業に来ているツェリン・ドルジェ(TSERING DORJEE)と同じ名前の役人だった。部署はHousing And Estate(Department Of Home)と言うからおそらく厚生省の役人だろう。事務所に入っていくと中原さんと彼がチベット語でなにやら相談し始めた。横で聞いていても何を言っているのかよく分からない。要所でN氏が日本語で訳してくれるのだが、A3サイズの平面図・立面図を描いたら5000ルピー貰えるらしいことだけは分かった。簡単な基本プランで5000ルピーである。その頃食べていた一食分(トゥクパとモモのセット)が50ルピーだったので、凡そ100食分の金額である。さらに、滞在していた9-10-3の施設の宿泊代が100ルピーだったので、これで50日分浮かせることが出来る計算だ。貧乏旅行者にとっては願ったり叶ったりである。しかし、5000ルピー分の仕事をしなければならないといったプレッシャーもあった。さて、どうしたものか?
とりあえず持ち帰った現場のスケッチをCADのデータとしてトレースしてプランニングに取り掛かった。問題は土地の測量がいいかげんなものであることと、インド&チベットの住居がどういったプランを持っているかを私がまだ把握していなかったことにある。建築家中原さんの意見では、各住居を南北に割り振って階段状に配置するという案だったが、それでは北向きの住居には直射日光が入らない。日本の建設コンサルタントで長年マンションの設計をやっていた私は全戸南向きにこだわった。そこでまず叩き台のプランを作成することにした。キッチンを真ん中にもってきた2Kのタイプを東西に5戸配したプランである。土工事をなるべく小さく抑えるために2階から上はスキッププランにしたのだが、それでも南北に長いプランなのでちょっとした土工事は免れない。一般的な外廊下型の集合住宅の模範解答であるが、果たしてインドで通用するものなのか?
しかし、模範解答であっても問題は多かった。まず、キッチンやバス・トイレの換気をどうするかだ。日本の住宅事情であれば機械換気で対応するのだが、インドではそうはいかない。しかも貧弱な亡命政府の予算も限られている。だから1案目のプランでは各住居ごとに給排気のダクトを設けなくてはならなかった。仮にそれが可能だとしても、雨期には湿った空気に支配されるインドでは非衛生的であった。その上、各室のプライバシーは中廊下や扉が無いのでまったくないも同然のプランであった。模範解答にしては失敗作である。だが、とりあえずの叩き台としては使えるだろう。
9-10-3のレストランやコンピュータルームであれこれプランを考えていると、NGOの高橋さんが近寄ってきて興味深そうに私のPCの画面を覗き込んだ。各部屋を間仕切ったプランを考えていると、
「ああ、これは日本のマンションですね。でも、インドではありえませんよ」
と言うではないか。そう言われれば私も躍起になって別の案を捻り出さざるを得ない。キッチン・バスルームを外気に触れさせようとしたら北側にそれらを配する他は無いのだが、そうすれば真ん中の居室が無窓居室になってしまう。これも問題であった。その上、亡命政府のツェリン・ドルジェ氏のリクエストでは最上階にホールを計画したいとの事だったので、住居を分割して配置するわけには行かなかった(しかし、最終的なプレゼンテーションに用いたプランではこのホールのリクエストを断念せざるを得なかったが・・・)。
とりあえず、2案ほど作成して9-10-3のインターネットカフェ(当時はまだ準備中であった)でプリントアウトさせてもらい、次の打ち合わせに臨めるように準備した。果たしてこんな簡単な図面で5000ルピーがもらえるのか?疑問であった。

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