6.予備校をサボって街歩きにハマる
実家のある生駒市から大阪の予備校に通うとなると、近鉄電車とJR環状線または地下鉄の御堂筋線を乗り継いで行くことになる。近鉄の奈良線を鶴橋で乗り換えて環状線で行くなら、大阪駅で降りて、中津まで歩くことになる。地下鉄御堂筋線を使うと、中津まで直接電車で行ける。私は場合によって、この2通りの通学手段を使い分けた。
いずれにしても、近鉄奈良線の快速急行とJR環状線、地下鉄御堂筋線は最もメジャーな通勤・通学路線で、その通勤ラッシュの混雑具合は大阪圏では有名である。そこに、美術予備校に通うためにA1サイズのカルトンを抱えて乗り込むので、他の乗客から迷惑がられた。おしくら饅頭の中でカルトンを抱えているので、なかなか姿勢の入れ替えなどできるものではない。乗客のあいだにカルトンが挟まって、体ごと車内を押されていったこともある。
学科の予備校の河合塾大阪校の授業には、初めの1ヶ月ほどは真面目に通ったのであるが、そのうち、受講したい授業だけ受けて、残りの時間を遊んで過ごすことになった。遊ぶといっても金のない浪人生だったので、目的もなく、大阪・京都・神戸の街をブラブラ歩き回っただけである。
大阪だと、梅田から難波まで、御堂筋をビルや工事現場を見ながら往復したり、天保山公園に行って、まだ工事中だった阪神高速5号湾岸線の天保山大橋の工事を弁当を食べながらボーッと見たり、高層ビルの最上階に上がって風景を俯瞰したりランチを食べたりしただけで、後年、自転車で走り回った時のように、あちこち行ったわけではない。
京都は主に東山界隈と嵐山によく行った。
東山だと、予備校に行こうと思って梅田まで行くのだが、急に気が向いて阪急電車と京阪電車を乗り継いで、まずは銀閣寺に向かう。
京都といえば、高校時代、インディーズのレコードや、UKのパンクのレコードを買いに、新京極にある詩の小路ビルの4階にあった「ユリナレコード」や三条のVOXビルにあった「メディアショップ」、月刊宝島の京都特集で紹介されていた雑貨屋や古着屋にはよく行ったものだが、浪人時代はもっぱら神社仏閣と町並み徘徊である。
銀閣寺は、室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられた相国寺の塔頭寺院の一つである。北山文化の象徴である足利義満の金閣寺に比べ、東山文化の真髄である簡素枯淡の美を映す一大山荘で、どちらかと言うと個人的には金閣寺よりも銀閣寺の渋さが好きである。
銀閣寺を出ると、哲学者西田幾多郎が思索の場として散策した哲学の道を散策する。哲学の道は、東山山麓の琵琶湖疏水に沿って銀閣寺西の今出川通銀閣寺橋を北端、永観堂付近にある熊野若王子神社前の冷泉通若王子橋を南端とする幅員の広くない約1.5kmの散歩道で、琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れ、疏水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がある。春は桜、初夏は木々の緑、秋は紅葉と四季折々に景色が変化する自然の美しい区間で、京都で最も人気のある散歩道として訪れる人が多く、桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。若王寺橋の付近の熊野若王子神社で哲学の道は終わり、近くには紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる永観堂があるのだが、当時は知らなくて、すぐに南禅寺へ向かう。
南禅寺は、日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いで、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ寺院なのは有名で、とくに、歌舞伎の『楼門五三桐』の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな!絶景かな!」という名科白を廻す「南禅寺山門」は有名である。また、昨今、テレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着しているインスタ映えのスポットである田辺朔郎の設計の琵琶湖疏水水路閣は人気が高い。私はどちらかと言うと、徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わり、江戸時代の礎を作ったとされる以心崇伝が住した金地院の方に興味があった。
南禅寺から知恩院、円山公園と抜けて、清水寺に行くのがいつもの東山ルートであった。この間、青蓮院門跡や八坂神社、高台寺などもあるのだが、当時は清水寺へのラストスパートで、立ち寄る心の余裕はなかった。
次に嵐山である。嵐山へは毎回、梅田から阪急京都線に乗って桂で乗り換えて行った。阪急嵐山駅は、一般にイメージされる嵐山とは反対の、渡月橋を渡った側に有り、今でこそいわたやまモンキーパークが知られていて、インバウンドが華やかだった頃は、多くの外国人観光客で賑わっていたが、私の頃は閑散としていた。
ちなみに、近年、嵐山へ向かう観光客がよく使っているJR嵯峨野線が、複線・電化されたのは、1989年~1990年にかけての頃で、私が浪人していた時代はまだ非電化のローカル線で、利用者もわずかだった。だから、大阪方面から嵐山へ行くのは阪急電車、京都中心部からなら嵐電(京福電気鉄道嵐山本線)を利用するのがポピュラーだった。
阪急嵐山駅から渡月橋を渡れば嵐山の中心である。嵐山でお寺というと、二尊院や常寂光寺、天龍寺がメジャーであるが、私は祇王寺や滝口寺、落柿舎など、マイナーなところを回って大河内山荘でお茶を飲んで帰るのがいつものパターンだった。
祇王寺は、平清盛の寵愛を受け、のちに捨てられて出家した白拍子の祇王に由来する尼寺である。本堂内には本尊の大日如来のほか平清盛と四尼僧の木像が安置され、境内には清盛の供養塔と祇王姉妹らを合葬した宝篋印塔が建立されていて、苔の庭で知られ、秋の散り紅葉も有名である。
滝口寺は、元々は法然の弟子・良鎮が創建した往生院の子院三宝寺跡を引き継いでいて、明治時代の廃仏毀釈により一時廃寺となるが、昭和の初期に再興された。『平家物語』の斎藤時頼(滝口入道)と建礼門院の侍女横笛の悲恋の寺として知られている。また、新田義貞の首塚もある。
落柿舎は、松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた場所であり、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。芭蕉も3度訪れ滞在をし、『嵯峨日記』を著した場所としても知られている。
大河内山荘は、時代劇などで知られる俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園があることで有名で、入場者には抹茶と茶菓子のサービスがあり、茶菓子は「大河内山荘」と刻印されたモナカで、これは土産として販売もされている。
さて、一方で神戸方面は、北野の異人館街と旧居留地のあたりを何度も歩き回った。三宮の駅を降り、少し線路沿いを歩いて、トアロードを上がっていく。山手幹線を渡って、NHK神戸放送局を過ぎると、次第に小規模な建物エリアになっていく。明治時代に建てられた木造の西洋館を改装した中華レストランの東天閣まで来ると異人館街である。
神戸の北野町というと、異人館ばかりが有名だが、建築科安藤忠雄の作品も数多く存在する。私が浪人していた頃には、安藤忠雄は既に建築界ではスーパーヒーローだった。北野町にある安藤忠雄建築をいくつか挙げてみる。
まずは、ローズガーデン。
1977年、神戸の老舗ベーカリー、フロインドリーブ創業者の半生記をテレビ小説化した「風見鶏」が放映され、一躍北野町が脚光を浴び、今日へとつながるまちづくりの機運が高まった頃に完成した商標ビルで、街の個性を受け止め、その魅力を引き出す建築にしようと、レンガの壁、異人館風の切妻屋根などをデザインに取り入れ、建物の中に外の坂道をそのまま引き込んだような、半屋外の通路が巡る構成がされている。
次に、北野アイビーコート (現在:GRAND-SUITE北野)。
正面の不動坂から見るシンメトリックなファサードで、現在の安藤建築では見られないレンガの外壁が特徴で、コンクリート打ち放しには無いエイジングが魅力となっている。地下と1階は店舗、上層階は集合住宅である。側面から見るとマンションなのが分かるが、2棟に分割したようなエレベーションで、バルコニーにパーテーションが無いところをみると、間口が広い大きめの間取りになっている。
次に、北野アレイ。
外観は、レンガタイルとコンクリート打ち放しが組み合わされ、外壁が全面的にコンクリート打ち放し、床面や塀などの外構部分にレンガタイルを採用している。人を内側に呼び込んで、中庭を囲むような界隈を創る手法や、建物を低く構えて階段で地下に掘り下げるアプローチが、現在では表参道ヒルズにまで見られる。後に、コンクリート打ち放しだった外壁は、コンクリート色に近いグレーに塗装(打ち放し補修ではなく塗装による塗り潰し)がされ、綺麗すぎて重厚感が失われている。
次に、北野TO。
手前の鉄骨造(WALL SQUARE)と、その隣の鉄筋コンクリート造(FIX213)の2棟構成で、1986年竣工。全く違うテイストの組み合わせが取られている。WALL SQUAREの方には、ビジュピコ 神戸店が入っていて、H形鋼のフレームとガラスだけのシンプルなファサードは、とても明快なモダニズム建築である。
次に、Oxy北野(現 Wall Step)。
コンクリート打ち放しとリン酸亜鉛処理の金属パネルの外壁にヴォールト屋根の組み合わせで、北野TOと同じ1986年竣工。地下には 北野アイビーテラス というレストランがある。
次に、リランズゲート。
レンガタイルがメインの外観と違い、コンクリート打ち放し仕上げで、屋根も切妻屋根ではなくヴォールト屋根である。敷地の形状に合わせて分割した3棟を、細い中庭を設けながらセットバックするように配置され、建物内に入ると、決して大きくない中庭ですが明るくて効果的である。無機質なコンクリート打ち放しの外観とは裏腹に、内部は植栽と建築が一体になっていて、とても有機的な印象を受ける建物である。
最後に、リンズギャラリー。
レンガタイルによる外壁で、同じ意匠の建物を2棟並べる構成がされている。商業施設でもタイトな感じの通路や階段は、迷路のような印象を与え、安藤建築の特徴でもある。2棟に分ける合理的な理由もなく、床レベルが微妙にずらされ、奇抜なデザインをしている訳ではないのに、初めての空間体験が多い。
神戸の次の街歩きスポットは旧居留地である。
旧居留地は、神戸開港後、日本人と外国人との紛争を避けるため、当時の兵庫の市街地から3.5km東に離れた所に建設された。当時の英字新聞“The Far East”は、「東洋における居留地として最も良く設計された美しい街である」と、神戸居留地を高く評価した。北は西国街道、東は旧生田川(現在のフラワーロード)、西は鯉川(現在の鯉川筋)、南は海に囲まれた周囲と隔絶されていた地区で、そこにイギリス人技師J.W.ハートが居留地(神戸外国人居留地)の設計を行い、整然とした西洋の街を造り上げた。その後、東西の川は移設(付け替え)や暗渠化によって道路となったが、現在も道路を越えると街の雰囲気が一変する。15番館(Building No.15)は、明治初期の外国商館の姿を現在に残していて、1989年に国の重要文化財に指定されたが、その後、その建物は、1995年の阪神・淡路大震災で倒壊したものの、現在は復元されている。私が浪人時代徘徊していた神戸は、まだ、阪神・淡路大震災前である。
旧居留地は、1980年代までは、「老朽化した古いビルのオフィス街」という認識であったが、1988年に起こった旧神戸商工会議所ビルの保存運動が街再生のきっかけとなる。商工会議所ビル自体は解体されたが、居留地の一角を占める百貨店大丸神戸店が自ら所有していたヴォーリズ設計の近代建築をLive Lab West(現旧居留地38番館)として店舗化し、さらに周辺の近代西洋建築へ高級ブティックを積極的に出店していった。それによって近代建築オーナーの意識も変わり、近代建築が点在するのではなく「街並み」として「面」として存在することの価値を認識するようになる。