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9. 計画と運動

チュシ・ガンドゥクを形成したすぐ後に、様々な戦線で中国に対抗するための詳細な計画が練られた。様々なレベルの40人の異なる指導者が任命され、さまざまな責任が割り当てられていた。18人の司令官が軍事行動を制御するために任命された。割り当てが指示され、義勇兵を募集する場所が決られていた。そして援助のために連絡する僧院、荘園や地方のゾンが特定されていた。義勇軍の行動を規定する27項の軍事法が作成された。
ゾンとはチベットにおいては、行政区画単位の一種であり、中央政府が派遣する任期制の長官(ゾンポン)によって統治される行政単位である。原義はチベット文化圏に多く見られる城塞建築で、転じてその城塞に駐在する地方長官が統治する一定範囲の行政区画の呼称となった。14世紀半ば、パクモドゥパのチャンチュプ・ゲルツェンが中央チベットの覇権を握った際、要地に「十三ゾン」を設置したことを起源とする。
まだチャクツァ・ドゥリ-グツァンにいる間、中国からの圧力でチベット政府は、護衛の数が多いロカ地区の知事を含む4つの代表団を送った。代表団が繰り返した要求は地方のゾンにいるゴンポ・タシ司令官を組織から外すことであった。その繰り返される要求を疑って、ゴンポ・タシ司令官と他のトップリーダーたちは、代表団がゾンに来ることを拒否したが、代わりに、軍司令部に代表者を招待するためにいくつかのサブリーダーたちを送った。
彼らが陣営に来ることを拒否したとき、司令官は場所を立ち退くことを伝えるために政府から、あるいは他の人が持っていたどんな命令でも受ける意思があるということを伝えるためのサブリーダーを伴った多くの義勇軍を派遣した。それ故最後に、代表団は、サブリーダーを通じて知られている彼らの任務を行った。
代表団は、ゴンポ・タシ司令官、ジャゴ・ナムギャル・ドルジェとカムの人々が家を出て、武器を取り上げた理由に、明白な答えを要求した。代表団は彼らの行動や運動のための具体的な理由を求めていた。リーダーは、書面でその答えを与え、代表団はラサに戻った。
政府の代表団がラサに戻るやいなや、戦略的な計画に従い、本部担当のジャゴ・ナムギャル・ドルジェはチュシ・ガンドゥクの本部をツォナに移動させた。ツォナはツェタンから200km南。ブータン、インドとの国境近くにある町で、現在、中華人民共和国チベット自治区ロカ地区の県の一つで、県名は「湖の前」の意味である。県政府所在地は錯那鎮錯那居委会。南部はインドの実効統治区域で、領土問題が未解決である。ツォナの地は主にモンパ(モン族)が住み、中央チベットからは「モン」と呼ばれて辺境扱いされていた地である。
抵抗への支援のために必要とされたCIAによる公式の申出は、チベット当局によって無視され、そしてまたそれは長い時間がかかるだろうことは、ゴンポ・タシ司令官の指揮の下で選択された男や馬にも明らかに分かっていることだった。そして彼らはチベット政府の格納庫から武器や弾薬を得るためにサン・ガデン・チョコルに向かって動き始めた。そこから16kmほど離れたところにサン・ガデン・チョリンと言う僧院があり、チベット陸軍の兵器庫が政府の指示で移されていたのである。義勇兵の残りの部隊は中国の動きを偵察し、待ち伏せするために様々な場所への50から100までの小グループに分散された。
サン・ガデン・チョリンの僧侶たちは義勇軍に武器を渡してはならないとチベット政府から厳しく命じられていたが、義勇兵たちの説得に応じ、武器を譲り渡した。その中には385挺のリー・エンフィールド・ライフルのほかに、ブレンLMG10挺、ステンガン18挺、60mm軽迫撃砲2台、80mm中型迫撃砲2台、80mm迫撃弾108個、60mm迫撃弾288個、そして大量の303口径および9mm弾があった。強要されて仕方なく武器を差し出したと僧侶たちが中国軍に証言できるように、義勇軍は3名の僧侶を人質に取ったが、出発の夜に開放した。
ヤルンツァンポ川(=ブラマプトラ川)の南のロカ地区は義勇軍による中国軍と中国の輸送隊のかなりの数の待ち伏せの後、義勇軍の度重なる攻撃によって中国から解放された。しかし約2,000の中国の守備隊によって地下トンネルが築かれ、占領されたツェタンだけは、まだ中国の支配下にあった。現在ツェタンはロカ地区のチベット語で「象鼻山の先の前」を意味するネドン県の県政府が置かれている。
レジスタンスの義勇軍がこの初期段階で共産中国から取り上げた武器は、主に英国製303ライフル、ドイツ製7.62ライフルとロシア製6.72ライフル銃から成っていた。そこには他の国が作った小銃もあったが、それらは少量であった。これらの武器は、もともと第二次世界大戦後、インド、ロシア、中国から輸入されていたものである。義勇軍がチベット政府の格納庫から武器を得た後に、義勇軍はCIAによる空中投下と中国軍から武器を得た。
一方、ゴンポ・タシ司令官の部隊がサン・ガデン・チョリンからすべての武器や弾薬を取って戻って南に向かったが、すべての経路を中国の兵士の遮断しており、多くの深刻な遭遇の結果として、彼らはラサとシガツェを結ぶ旧道のヤルンツァンポ川の渡河地点であるタドゥカを横断する中国軍を貫通することが出来なかった。そして南に戻り、改めてネモ・サンから北部と東北部に向かって移動しなければならなかった。したがって、部隊は北部連隊として知られるようになった。
彼らはラリゴを目指してヤンパーチェンとナムツォを通過し、その後ギャツォ・ベンガルを通じてショタ・ロスム地域のサルテンとチャクラ・ペルベルに進んだ。その途中で義勇軍は、多くの戦闘を戦わなければならなかった。そして多数の死傷者を出して苦しんだ。ヤンパーチェンでは騎兵隊によって完全に敵の不意を突き、予想以上の兵員を町に配備していた人民解放軍部隊を追い散らし、多くの死傷者を被らせた。
デ・グン・マシュンにおける中国軍との深刻な戦闘では、ゴンポ・タシ司令官は破片や銃弾によって負傷した。後に亡命後、イギリスでの数ヶ月にも及ぶ医療にもかかわらず、彼はこれらの古い傷が原因で1964年9月、インドのダージリンで死亡した。
新兵の数が増加するにつれて、その後、北部連隊の一時的な本部のあるチャクラ・ペルベルでさらに何人かの司令官が命名され、そして若干の偵察部隊がペルベルから現在中国が大陸間弾道ミサイル基地を置いているポオ・タモや、ツルティム・ギャルワのようなチベット人学者を生んだナクツォ・ツォグ、そしてロ・ゾン地域へと派遣されたツァワ・ペショは、新しい義勇軍の兵士を募集して偵察し、政府の倉庫からできるだけ多くの多武器や弾薬を取得した。

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