2. 抵抗の開始
この進攻に対して、チベットに与した「義勇兵」を含めた8500人のチベット軍が阻止を試みた。磴口ではムジャ・ダポンが率いる部隊が最大の火力であったブレン303軽機関銃で応戦した。そこから100キロ南では人民解放軍が揚子江の渡河に成功してチベット軍の部隊50名を全滅させてランサムのチベット軍駐屯地に向かい前進した。そこからさらに200キロ南では人民解放軍は揚子江を渡河してマルカム駐屯地を攻撃し、250名のチベット部隊を全滅させた。
翌10月7日にチベット北部でムジャ・ダポンの指揮下にあった小部隊は人民解放軍を長江で阻止していたが、ランサムの部隊はチャムドに向けて後退を開始しており、孤立しつつあった。10月8日にも人民解放軍の波状攻撃を阻止することに成功したが、作戦不可能なまでに戦力を失い、その夜間に指揮官は部隊を解散した。このことで人民解放軍はチベット北部で揚子江を渡河したために、磴口のムジャ・ダポンもチャムドまで後退を決意せざるをえなかった。
10月16日にチャムドで行方不明だった知事ンガプー・ンガワン・ジクメを捜索し、ラサへの交通路が人民解放軍に遮断されたために潜伏していたチャムド付近の寺院で発見した。ダポンはンガプーに対して戦力を集中してラサへの交通路を確保することを主張したが、ンガプーは武器弾薬庫の爆破を命じ、それをきっかけにチャムドは大混乱に落ちいった。ンガプーは高官の服装を平役人の服に着替え、逃亡を図った。ある僧院で部下400名を率いる部族長に抵抗を続けるよう要望されるが、ンガプーは武器を捨てて投降するよう命じた。10日間の抵抗の後にチベットは敗北した。中共軍は、一月あまりの戦闘を経て、同年10月24日、東チベットの軍に勝利し、チャムドを占領した。これらの戦争は、「チャムドの戦い」ともいわれる。
チャムドの戦いは犠牲者数1000人とも言われる激しいものとなったが、その他の地域では大体のところ人民解放軍は歓迎されたか、少なくとも反抗は少なかった。かつての中国軍と言えば国民党を始めとしてほとんど無法者といった印象であったが、人民解放軍は「民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな」をスローガンにしており、チベットの文化も知り、礼儀正しかったと言われている。
1950年10月25日、中華人民共和国政府は人民解放軍のチベットへの進駐を宣言した。これはチャムド侵攻から17日も経ってからのことだった。 翌10月26日、インド政府はこれを「侵略行為」として非難の政府声明を発表し、イギリス政府もこれを支持したが、両国はチベットへの軍事支援については触れず、実際に軍事支援を差し伸べることは無かった。しかしながら、カムには然るべき組織と戦略、結束がなく、共通の敵と戦うための唯一の非協調的努力が行われた。
侵攻の初期において中国人民解放軍は1928年に毛沢東により、中国工農紅軍の軍規として制定された「民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな」をスローガンにしており、礼儀正しかったと言われている。
1950年11月7日(あるいは10月17日)、摂政タクタ・リンポチェ・ガワン・スンラプは引退し、ダライ・ラマ法王テンジン・ギャムツォは成人の18歳に達しておらず(16歳)、本人は望まなかったが、国王としての親政を開始した。そしてラサ議会の示唆に従い、インド国境のヤトンに避難した。
同1950年11月7日、チベットのラサ政府は国際連合に対して中華人民共和国による侵略を訴えたが、国際連合は、国連軍を組織してまで関与していた朝鮮戦争への対応が精一杯で、チベットに介入する余裕は無かった。
なおチベットは、国際連合の常任理事国である中華民国が独立国として認めておらず、自国領土として扱っていたため、正式な独立国として扱われていない上、文書がチベット政府から直接でなくインドから発送されていたため、本物かどうか確認できなかったからでもあった。この事態に対し、サラエヴォとエルサルバドルがチベット擁護を訴えたが効果は無かった。
また中華民国政府はあくまでもチベットを「自国領土」とする立場だったため、結果として、自らの敵国である中華人民共和国によるチベットへの侵攻を弁護する形になった。なお、国連総会運営委員会は「チベットと中国、インドに平和をもたらすためにも国連の場で討議することはふさわしくない」として、審議の延期を決めた。