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8. 結成

その法要の間、カルマパ16世の義勇軍の指導者たちは、将来の計画や戦略をレイアウトする秘密会議で忙しい時を過ごしていた。1958年初め、ラサにあるゴンポ・タシの家で会合が開かれ、一部を除き、ほとんどの族長が、カム地方にある金沙江(長江)、瀾滄江(メコン川)、怒江(サルウィン川)などの大河と横断山脈の褶曲山脈などの山脈にちなんで名づけられた「チュシ・ガンドゥク(4つの川と6つの山脈)」という運動を組織することに合意した。そして、各グループが活動する地域、指揮官の任命、武器、馬、ラバの調達、資源の分配、襲撃目標の選定に関して、合意に達した。チュシ・ガンドゥクが組織されたことは、武装抵抗を積極的に支持していた上席侍従ドンエルチェモ・パラによって、極秘にダライ・ラマ法王にも伝えられた。
彼らの共通の努力の結果として、最終的に全会一致で共通の敵、共産中国の侵略に対して、団結し抵抗組織を形成することが決定された。指導者たちは、共産中国に抵抗するためにすべてを危険にさらす約束の誓約文に署名した。
宗教的な儀式の修了時において、ゴンポ・タシと、会合に参加した300名の指導者たちは徐々にラサを離れ、別々のルートでラサの南のロカ地区に向かって移動した。そして最終的にチャクツァ・ドゥリ-グツァン(選ばれた落ち合い)で集合し、チュシ・ガンドゥクの戦略本部を設置した。
ロカ地区は公用語の正式呼称はチベット語名ロカ・サクル。青蔵高原東南部、ヤルンツァンポ河中下流に位置し、西はシガツェ地区、北はラサ市、東北はニャンティ地区と接し、南はインド、ブータンと国境を接する。本地区のツォナ・ゾン(錯那県)、ルンツェ・ゾン(隆子県)の南部は、ニャンティ地区のメトク・ゾン(墨脱県)、ザユル・ゾン(察隅圏)とともにインドとの国境紛争地域となっており、名目上これらの諸ゾンの南部とされる領域は、インドが実効支配するマクマホン・ライン以南の部分に位置し、インド政府はアルナーチャル・プラデーシュ州を設けている。チベットの伝統的な地理区分では、この地区の北部に隣接するラサ市を構成する諸ゾン(県)とともにウー地方を構成し、その住人を「ウーパ (dbus pa) 」と称する。
チュシ・ガンドゥクの結成の正式な発表は1958年6月16日に行われた。そしてゴンポ・タシの指揮のもとに国家防衛義勇軍(NVDA)という軍事部門が組織された。新しい名称を付けたのは、外交上の理由からで、おもにチベット東部から兵を補充していたとはいえ、チュシ・ガンドゥクの指導者はNVDAが国民軍であるという印象を持たせたがっていたからである。
チュシ・ガンドゥクの主な目標として、チベットおよびチベット仏教を中国から守ることが掲げられた。チュシ・ガンドゥクの「司令長官」は、ゴンポ・タシであった。これは、すべてのカムの領域とすべての地域のカンパたちが一つの組織の下に集合し、最後に、邪悪な王、ラン・ダルマの治世の間にチベットが分裂して以来、一つの旗の下で戦った初めてのことだった。
ラン・ダルマ王は古代チベットである吐蕃の王(在位836年 - 841年)である。護教王として有名なチツク・デツェンの弟で、兄の死後、王位についた。843年、ラン・ダルマ王は仏教に反対する大臣ウェイダナジェンに扇動され廃仏令を下し、仏寺や仏像を封鎖破壊し僧に還俗を迫り、反抗する高僧を殺害、経典や文物を焼却した。これに対し仏教を信仰する人々は不満を高まらせたのである。
チュシ・ガンドゥクは、カムとアムド地方の両方からの人々が含まれているが、アムドからの人の数が少なかったので、彼らは、組織内の37連合軍の1つを務めていた。亡命後は、アムドはアムド党を形成するために連合組織から撤退した。
指導者たちは、組織と旗幟または旗の色の編隊記章の選択に関心を向けた。長い議論の後、彼らは最終的に合意し、黄色の背景の上に交差した剣の組織の記章をデザインした。この背景色の重要性は仏教の色が黄色で、組織の主な目的は、中国の共産主義から仏教を守るためだったことである。チベット仏教最大の宗派であるゲルク派は黄帽派と呼ばれ、ダライ・ラマやパンチェン・ラマはこの宗派に属する。
シンボリックな交差した剣の理由は文殊菩薩の知恵の剣を表す。炎の剣は、共産主義の根本的な原因だった無知の根を切断することだった。文殊菩薩像を見ると髻を結い、瓔珞(ようらく)、腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)等の装身具で飾り、条帛を着け、右手に剣、左手に経巻を持っていることが分かる。もう一方の剣は勇気の象徴だった、それはカルマパまたはチベット人自身が行うことのできる唯一の武器であった。
かつて、1947年、インド、デリーで行われたアジア会議のチベット代表団は非暴力運動の創始者であるマハトマ·ガンディーに会ったときに彼を迎える伝統的な挨拶の方法として白いスカーフを捧げた。その時、ガンディーはそのスカーフがチベットで作られたものなのかどうか知りたかった。
チベット及びチベット文化圏では、寺の参拝、ダライ・ラマ法王や高僧の謁見、宗教の儀式、知人・友人の送迎、子供の誕生日、結婚式、葬式など様々なシチュエーションで、カターと呼ばれる白いスカーフを挨拶しながら相手に渡す習慣がある。カターの「カ」は口で、「ター」は布あるいは印(しるし)、誠心誠意、心からの敬意を表している。つまり、カターを相手に渡すことにより、自分の心からの敬意を表すという挨拶の印なのである。
一般にカターは白色が使われる。白には純粋な気持ちを表す。この他、青、赤、黄、白、緑の五色のカターを宗教的の儀式や供養などの目的に応じて使用する場合もあるが、その機会はあまりないといえよう。チベット仏教を信仰しているモンゴルでは、高僧の謁見の際に、五色のカターを重ね合わせて献上する風習があり、五色のカターを盛んに使用しているようである。
カターを大きくわけると(良い材質の順に)、ナンゾ(Nanzod)、ソクダル(Sogdar)、バルゾ(Barzod)、アシェ(Ashi)、スプシェ(Supshe)、チゾ(Chizod)、ソタック(Sotak)、カチ(Kachi)の8種類がある。最後の2つのカターの材質はいいものとは言えない。カターの中で最高とされるのは、絹で作ったナンゾで、これにもいくつかの種類がある。真ん中に運勢を強くするナムチュワンデンとその周りに八吉祥(タシタゲー)、両端にチベット語で、「ニモデレ・ツェンデレ・ニツェン・クントゥ・デワタン・クンチョク・スムキ・タシーショク」(『昼も元気で、夜も元気で、いつもまでもの元気で、三宝の(仏・法・僧)ご加護がありますように』)という文字を描かれているナンゾが最高級のカターである。こうした最高級のカターは、ダライ・ラマ法王や尊敬する高僧に挨拶に伺う時に用いられる。上等な絹でつくってあるため、当然、値段も張る。次に良い材質のカターのソクダルは、ダライ・ラマ法王を謁見してその印として頂く物で、もともとは青色だったが、現在は赤色のみが使われている。次のバルゾ、アシェ、スプシェなどのカターは、巡礼、参拝、結婚式などで多く使われる。
チベット代表団が中国からのものであった言ったとき、ガンディーはチベット人自身が自身の手と方法で作ったものを希望すると言って、それらを受け取ることを拒否したのである。

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