17.中国の作戦
1951年、中国とソ連は協定を結び、中国側がソ連に対してウラン鉱を提供し、その見返りに核技術の援助を受けることに同意した。1953年には、中国は核エネルギーの民間利用に模した原子力研究プログラムを開始している。1950年代を通して、ソビエトは中国に大量の装置を提供したが、両国の関係が悪化するにつれてソ連側の協力は減少していく。そして、1959年には、中国はコピーの核兵器の提供を拒絶されている。それにもかかわらず、中国は核開発の突貫計画を進めた。
中国の核兵器研究・開発活動の中心となる施設は、1960年代初期に建設された。場所は、チベット高原に属する青海省海北チベット族自治州の、ココ・ノール(青海湖)に隣接する土地である。この施設の正式名称は、「西北核武器研究設計学院」であるが、第9局の管轄下にあるため、第9研究所という通称がある。第9局は、1958年に創設され、中国の核関連政策の中心に位置し、後に、核武器局と改称された。
中国の最初の作戦は、速度を加速し続けた中国の核開発計画からロシア人が撤退し、中国の核実験が秘密のベールに覆い隠されていた1963年近くだった。1964年の情報報告は、中国が新疆ウイグルのロプ・ノール核実験場への核爆弾設置を準備したことを示し続けた。竹のカーテンの背後で秘密裏に進行された中国の核とミサイル能力を獲得したとの切迫した重要な情報は、ワシントンDCとニューデリーのすべての計画に衝撃を走らせた。
中国は新疆ウイグルのロプ・ノール周辺地域で1964年10月16日に核実験を行った。1964年以来、ロプ・ノール周辺地域は核実験場として使われ、1996年までに核実験が46回に渡り実施された。大気圏内核実験はロプ・ノールの北西約100km、地下核実験はロプ・ノールの北西約220kmの地域で行なわれた。そのため、1950年代から1960年代にかけてロプ・ノール付近は軍事上の立ち入り禁止区域となった。中国共産党の極端な秘密主義のために、現在の核兵器保有数ははっきりとしていない。そのため、中国の核開発の情報は西側の期待に十分ではなかった。
1964年11月の終わりに、CIAはオリッサ州のチャルバティア軍用飛行場にある航空研究センター(ARC)からU-2機を発進させたが、その帰還は困難であることが判明した。U-2はオーバーシュート(戦闘機が旋回して敵の有効射程圏から逃げ回り、同時に自己の有効射程圏に敵機を入れようとする戦局において、敵戦闘機の後ろを取り、絶対的攻勢にありながら敵機を追い越してしまうこと。自らの後ろを取られてしまうため、一気に攻守が入れ替わってしまうので自殺行為に等しい)し、モンスーンの豪雨による雪解けの地面にはまってしまった。
U-2機はCIAの資金により、ロッキードが開発した高高度スパイ偵察機である。U-2機は長い直線翼を備え、高度25,000m(約82,000ft)もの高高度を飛行し、偵察用の特殊なカメラを積み、冷戦時代はソ連など共産圏の弾道ミサイル配備状況をはじめとする機密情報を撮影した。その並外れた高高度性能は、要撃戦闘機による撃墜を避けるため、敵機が上昇し得ない高高度を飛行するためのものだが、後に対空ミサイルの発達により撃墜が可能となってしまった。
U-2機はインドの記者にも気付かれずにバラバラになり、インドの外に出た。その後、さらに多くの左派の影響を受け、それ故に、U-2機発進は対立する米国の秘密の作戦であった。これは、すべての関係各国に非常に恐怖を与え、そして他の技術的手段に頼ることに決定した。
詮索する装置を導入するための計画、インドとチベットの国境に近いナンダ・デヴィ峰(7817m)の上に中国の核開発の拠点を凝視するための正真正銘の望遠鏡を設置する計画が、遠くワシントンDCにあるナショナル・ジオグラフィック協会(アメリカ地理学協会と記されることもある)の事務所で企てられた。エドモンド・ヒラリーの息子のピーター・ヒラリーと1963年に米国人としてチョモランマ(8848m)に初登頂した「ナショナル・ジオグラフィック」誌の記者兼写真家のバリー・ビショップはゲンに興味を持った。
策案したのは、第二次世界大戦後にその功績を認められ空軍中将に昇進し、その後ソ連をはじめとする東側諸国との間の冷戦下において、戦略航空軍団司令官と空軍参謀総長を歴任した米空軍のカーチス・エマーソン・ルメイだった。映画 「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」でジョージ・C・スコットが演じる米空軍のトリガーハッピー(銃のトリガーを引き、乱射していれば幸せな状態、あるいはそれで幸せを感じる人を指して使われる)の一般的なモデルだったルメイは、「ソ連を数時間で放射線の雲の廃墟に変える」という恐ろしい目的で始まった核戦争に対する最高作戦計画である米国の単一統合作戦計画(SIOP)の創始者だった。ちなみにルメイは東京大空襲を初めとする日本の焦土化作戦を立案し、大成功をおさめた人物である。標的となった日本の都市は、工廠を含む軍需工場、民家の区別なく徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受けた。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となり、これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」・「皆殺しのルメイ」と渾名された。
ルメイは、後輩たちの多くと同じく、その計画を「核の引き金に指をかけるネアンデルタール人の冷戦」にした。ルメイは、計画を愛し、CIAにそれを売り渡した。この計画がインドにもたらされると、1965年のインドのエベレスト遠征隊のリーダーとして知られているMS・コーリ大尉が担当した。コーリ大尉は、本当に偉大な冒険の最後の英雄であった。彼はインド海軍の教育部門で人生を出発したが、皮肉にも彼は高い海の代わりに、高い山で実力を発揮した。登山やヒマラヤの深い知識への情熱は、彼を、タフで強力な準軍事組織であり、その後、当時のユニークな地政学的な視座で必要とされた冒険シリーズのインド-チベット国境警察(ITBP)にさせた。
実際の取り組みは、核燃料電池を搭載した電子諜報(ELINT)と呼ばれた。ELINTは仮想敵国や交戦当事国の軍隊で使用されている、レーダーや無線通信の周波数や強度、発振形式などに関する情報を収集する偵察活動である。電子戦の基本中の基本であり、ジャミングの効果などは、平時のELINTでどれだけ精度の高い情報を蓄積できるかにかかっている。実戦に近い状況を作り出す事によって相手の使用周波数を探るため、偵察機によって対象国の防空識別圏に侵入し、領空手前で引き返すといった手法がよく用いられる。
コーリ大尉指導下のSFFチームによって、ナンダ・デヴィ峰(7817m)の上にこの装置を配置する最初の試みは、チームが不利な状況に直面して撤退しなければならなかったために失敗した。そして7817mの頂上のわずかの左に運搬された後に、小さな無名峰の洞窟に装置を設置した。この秘密計画は、「トップ・ハット作戦」というコードネームで呼ばれていた。しかし、次の年に、コーリ大尉指導下の別の遠征隊がその装置を取り戻すために戻ったとき、それが失われていることが判明した。
何が起こったかについては、多くの説がある。最も可能性が高い説は、装置が山を転がり落ち、今は氷河の底にあるという説である。もっと想像力のある説は、そのコアで毒性の高いプルトニウムの同位体を持つはずの不滅の原子力発電パックが数千年の半減期で、ガンジス川にインチング(1操作ごとに小刻みに発停を繰返す、短ステップでの位置の移動)されていることを推測している。別のもっともらしい説は、インドの登山家の別のチームがひそかに次のシーズン早々に来て、インドの核科学者が研究するために装置を秘匿して持ち去ったという説である。多くの米国人たちはこの説に傾いた。伝説のスパイ組織のリーダーで、インドの対外諜報機関であるRAW初代主任であったラムシュワル・ナス・カオには全てのことが可能であった。
失われたSNAP19-Cバッテリーの最終目的地がどこで、何があったとしても、コーリ大尉が特に困難なチームを率いて探索し、回復するという使命を果たす前に無くなっていた。その間に中国は、定期的に核兵器のテストをするだけではなく、弾道ミサイルもまた保持していた。情報を収集するための緊急性は決して大きくなかった。
インドと米国は、インディラ・ガンディー首相とリンドン・ジョンソン大統領との関係がますます冷ややかだったにもかかわらず協力し続けた。アメリカ人はそう簡単にあきらめていなかった。1967年、別のミッションがインド・ガルワールのナンダ・コット峰(6861m)に、同じような装置を配置するために派遣された。このミッションは成功したが、数年後にアンテナの上に積雪し、装置が使えなくなるという別の問題が持ち上がった。したがって、コーリ大尉とそのチームは、それを取得し、持って降りるためにナンダ・コット峰に行き、この時、彼らはそれを回収した。
しかし話はここでは終わらない。1967年10月に中国は、6000マイル離れた目標に達することができるICBMのテストを実施した。詳細を確認する緊急性がその時更新された。それ故、勇敢なSFFの登山隊は1969年12月に1つ以上のミッションに出かけ、中国支配地域でおそらく非公開の山にガスの受電装置を配置することに成功した。しかし、次の年、アメリカはTRWオートモーティブ・ホールディングス(TRW Automotive Holdings Corp.)のスパイ衛星の第一世代を持っていたため、古いELINT装置に依存する必要はなかった。
その後、1978年4月、「核の時限爆弾」をナンダ・デヴィ氷河に刻み込み、聖なる河であるガンジス河にゆっくりと流れ込むことについてのあらゆる情報がインド議会において流出した。ナンダ・デヴィ生物圏保護区は、1982年以来すべての訪問者に閉鎖された。そして2002年初めに、現在本当に無害であるとの発表がなされると、登山者やトレッカーに許可された。
冒険譚はまだ続く。2001年12月21日の「ザ・アジアン・エイジ」の報告によると、インド陸軍のガルワール・ライフル連隊に所属する40人の登山チームがその年の9月にナンダ・デヴィ峰に登頂し、800kgの有害廃棄物を回収したという。第10代インド共和国インド大統領のコチェリル・ラーマン・ナーラーヤナンは、インド軍に対して「環境を維持するための努力はすべてに理解される必要がある」と祝辞を送った。問題は、回収された有害物質が何であったのか、そして大統領自身の祝辞が何を求めていたかである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?