26.駒澤大学学園祭乱入
多摩美術大学在籍時、学園祭=芸術祭には一度も関わったことがなかった。まあ、学内の人間関係がつまらなく、付き合いもなかったので当たり前かもしれない。建築科としての展示もなかったし、クラブやサークルに入ってなかったことも大きかったと思う。唯一興味があったのは、90年代末まであった多摩美術大学の芸術祭のオールナイトロックフェスというイベントだったろうか。毎年、11月2日の夜に始まり、翌3日(休日)の明け方まで、7、8バンドが出演しておこなわれたコンサートは、管理されないロック空間の出現する数少ないフェスティバルとして、客からだけでなく、出演ミュージシャンからも支持されていた。
多摩美術大学のオールナイトロックフェスを紹介すると、この当時、学園祭のロックフェスといえば法政大学が知られていたが、これは昼間のイベントで都内ではオールナイトは多摩美だけだった。全国でみれば関西にピン大オールナイト(桃山大学、ピンク大学の略)があり、西のピン大、東の多摩美、といわれ両雄を競っていたようである。多摩美でなぜオールナイトロックフェスが可能だったかというと、キャンパスが八王子の山の中にあり、隣接する民家がなかったこと、会場の学内体育館はもちろん防音などされていないから音はおもいっきり外に溢れ出していたが、イベントが中止に追い込まれるような苦情が来たことはない。野外コンサートにすれば客はもっと入ったかもしれないが、この季節の夜間、八王子の山の上の冷え込みは強く、天候が悪ければイベントの失敗は避けられない。学祭イベントという性格上、最悪でも赤字を出さなければよいので、小さくてもやはり会場には体育館が使われた。そしてチケットも1500円から2000円程度で通した。メインになるバンドにインパクトがなければ客は入らない。 そこでとられた方法というのがちょっとした賭ではあるが、 夏前にこれからのびそうなバンドと早めに契約してしまうことで、そんな思惑が最も当たったのが1980年の「RCサクセション」だった。この年、例によって早めに「RC」と契約した頃は、まださほど売れてはいなかったが、夏あたりから「雨上がりの夜空に」がヒットし始め、学祭の季節になる頃にはおもいっきり火がついて、前売りは飛ぶように売れたという。この年は「子供ばんど」、「シーナアンドロケッツ」などが出演し、夜半、「RC」の出番になるころには会場は約3000人の客ですし詰めになっていた。 ちんけな体育館をまさに揺らしながらのライブになったが、 今から考えるとよく床が抜けなかったと思う。そして、 客の荒くれ様に気をよくして、アンコールに答えた忌野清志郎が 「昼間行った他の学祭はショボかった!けど、ここはロックだっぜっ!」と叫んで、「上を向いて歩こう」を歌った。私はこの時、まだ浪人生で、翌年この学校の学生になり、このイベントにどっぷりかかわることになるとも知らず、夜どおし狂っていたそうである。
ただ、私の学生時代には、このオールナイトロックフェスには、あまり興味のあるバンドは出場していなかったと思う。それに、当時の私の興味はロックよりもハウスやテクノのようなダンスミュージックだった。大学時代に思い出に残っている学園祭というのは、自分の多摩美術大学ではなく、高校の同級生のシコ中が通っていた駒沢大学の学園祭が唯一かもしれない。
3年生の大学学園祭シーズンにシコ中から駒沢大学の学園祭でスターリンのライブがあると聞いて、「これは行かねばなるまい!!!」と行った覚えがある。
私にとってスターリン、或いは遠藤ミチロウとの出会いは、それまでいくつかの伏線はあったものの、私を一気にサブカルの道に走るきっかけになり、それ以降の私の行き方を決定させる大きな要因になった一つである。それまでジャズやフュージョンを聴いていたいけ好かない中学生だった私が興味本位で買ったスターリンの「GO GO スターリン」を聴いてブッ飛んでしまった。
スターリンは、ボーカルの遠藤ミチロウを中心に1979年に結成されたバンド、「自閉体」を母体として1980年結成。同年9月5日にファーストシングル「電動こけし/肉」をインディーズレーベルからリリース。その後1982年にアルバム「STOP JAP」で徳間音楽工業よりメジャーデビュー。3枚のアルバムをリリースした後に1985年解散。その後もビデオのみをリリースするというコンセプトの「ビデオスターリン」や、定冠詞の付かない「スターリン」というバンド名で復活している。
同時期にデビューしたじゃがたら、INUなどと並んで日本のパンク・ハードコアシーンで活動していた。ラモーンズ直系の8ビートにG.B.H.のような攻撃的なハードコア・サウンドを組み合わせた曲調と、言葉遊びを織り交ぜた皮肉を込めた表現の歌詞が特徴だった。ライブ会場では同時期に対バンなどをしていたじゃがたらの影響を受け、ボーカルの遠藤が鳩の死骸や豚の頭・臓物を客席に投げつけ、爆竹や花火を投げ込み、全裸でステージから放尿するといった過激なパフォーマンスで話題性を呼んだ。東京のライブハウス「屋根裏」を破壊し出入り禁止になったことや、とある高校の文化祭でゲリラ的にライブを行った時に遠藤が全裸になり逮捕された事もある。
そうしたスキャンダラスな行為が評判となり、81年9月に週刊誌「女性自身」にザ・スターリンの記事が掲載され、マスコミに取り上げられるようになる。ザ・スターリンが他のバンドと違ったのは自ら積極的に雑誌やテレビなどのメディアを利用し、活動をアピールしてきた所であり、音楽・芸能問わず数々のメディアに登場していた。その一方で一部の暴力的なハードコア・パンクス達からは積極的にメディアを利用した宣伝を行い、「知的なパンク」を演奏するスターリンは異端児の様な扱いを受け、嫌われるという事もあった。
メジャーデビュー後は、アルバムがオリコンチャートの上位に食い込むなど売上においても一定の成功を収める。しかし結成当初よりメンバーが安定せず、メンバーチェンジを繰り返しながら活動していた。デビュー時のメンバーがほとんど脱退してしまったこと、前述の過激なパフォーマンスや破壊活動が行われる事を危惧した全国のライブハウスやホールから徹底的に締め出されたことでライブ活動が困難になり、1985年2月21日の大映スタジオでのライブを最後に解散する。
その時の駒沢大学の学園祭のライブは、スターリンの他に、ダイナマイツ、村八分等で日本のロックのコアの部分を知らしめてきた山口冨士夫が名うてのミュージシャンとガッチリ共闘したバンドTEARDROPSと、ギターの伊丹英子とベースのケイトが、バイリンガル・ヴォーカルの内海洋子と出会うことにより1984年に結成されたガールズ・ミクスチャー・ロック・バンドのメスカリン・ドライヴが出演予定だった。
駒沢大学の学園祭のライブは、スターリン目当てで見に行ったのだが、その後、私の尊敬する中島らもさんの影響で山口冨士夫に興味を持つようになる。村八分は、日本的な風情をもった攻撃的な楽曲を展開するロックバンドで、ドラムがずれようがおかまいなしに突き進み、時には客と喧嘩し、音源の発表よりもライブにこだわりつづけた。ヴォーカルのステージ上でのダンスや挑発的ながらユーモラスなMC、美声とは程遠いがなり声、「かたわ」「めくら」「びっこ」など現在では差別用語と言われるような過激な表現の歌詞など、アンダーグラウンドな雰囲気が漂う。評論家の小野島大によれば、村八分の名前と楽曲はNHKの放送自粛対象に指定されている。その音楽的特徴から、日本における最初期のパンク・ロックとされることもある。1970年代の日本のロックを語る際、PANTAの頭脳警察とともに、東の頭脳警察、西の村八分と呼ばれたバンドである。
また、山口冨士夫は1980年に裸のラリーズにも参加した。裸のラリーズは、ヴォーカル、ギターの水谷孝を中心に、1960年代から1990年代にかけて活躍したバンドで、結成時のメンバーには、後によど号ハイジャック事件に加わった若林盛亮もいた。裸のラリーズの活動は1990年代中頃のライヴ以降休止状態である。水谷自身が公に語った言葉が少なく、活動期間もアンダーグラウンドかつ断続的であるため、裸のラリーズに関する情報には未知の部分が非常に多い。そうした不可避の不明瞭さが偶発的にバンドの伝説化・神格化に拍車をかけたとみることもできる。ただし、こうした状況に関して、ある時期以降は水谷が自ら情報や音源の流布に制限を掛け、神格化を自己演出したとの批判もある。
また、メスカリン・ドライヴは、T・レックスやニューヨーク・ドールズのようなヘヴィーなグラム・ロックを指向していたが、伊丹英子がイニシアチブをとるにつれ、ニューヨーク・パンクや60'sガレージ・サイケ的な路線へとシフトしてゆく。「和製ジャニス」「和製パティ・スミス」と騒がれた内海洋子の野太いヴォーカル、伊丹英子の風狂なアンペッグ・ギター・サウンドが注目を集め、バンド・ブームの真っ只中で時流とは離れつつカルト的な人気を誇るが、1986年頃から、のちの盟友ニューエスト・モデルとのコラボレーションが密になり、1988年には2つのバンドによる自主レーベル「ソウル・フラワー・レコード」が発足。1993年8月、「寿町フリー・コンサート」「本牧ジャズ祭」出演を最後に9年間の活動に幕を閉じ、ニューエスト・モデルと統合する形でソウル・フラワー・ユニオンへと発展してゆく。ニューエスト・モデルはリアルタイムでは聴いていないが、ソウル・フラワー・ユニオンは、徹底して現場主義にこだわり社会的発言を続けており、反権力・反権威、アナーキズムの視座から、非戦の立場を明確にしているが、左右を問わず既成のイデオロギーや宗教への懐疑や嫌悪感もしばしば表明している中川敬に注目していることや、ボロフェスタ2013でのソウルフラワーBiS階段で注目している。
さて、そんな駒沢大学の学園祭のライブであるが、シコ中と数人で行ったのだが、まず、駒沢大学の学園祭の会場に入るのに入場料がいるということで、我々は人目につかないところに回り込んで大学の塀を乗り越えて学内に入った。ライブまでまだ時間があったので、駒沢大学の学生の展示などあれこれ見て回ったが、これといってパッとしたものはなかった。普通の大学の学生の展示はこんなもんかという感じである。まあ、美術大学と言う特殊な環境で、常日頃アートに接しているとそんな風に感じてしまうのかもしれない。
ライブが始まると、まだその時は山口冨士夫やメスカリン・ドライヴに注目していなくて、椅子に座って呑気に聴いていたが、あれは今から考えると惜しいことをしたな~~~という感想である。もっとノリノリでライブを楽しんだらよかった。
さて、いよいよスターリンがステージに現れると、再結成を心待ちにしていたファンも多く、一気にホールのボルテージが上昇し、観客はみんなステージ前に詰めかけた。思えば初めてスターリンを知ったのは中学3年生の時。高校時代を通してインディーズのハードコアパンクバンドにはまり、コピーバンドでギターも弾いていた。同時にハマったガールズバンドの草分けのZELDAは高校3年生の時に函館市民会館でライブがあって、バンドでヴォーカルをやっていた志村を誘って見に行った。私をサブカルチャー&オルタナティヴな道に引きずり込んだスターリン・遠藤ミチロウを初めて生で目にすることになる。なかなか感慨深いものがあった。最初の曲は「ワルシャワの幻想」だったと思うが、立て続けに「ロマンチスト」や「STOP JAP」と続き、会場は大盛り上りである。私の目の前で飛び跳ねていた女の子のお尻が何度も股間にぶつかって、私は別の意味でも盛り上がってしまった。