10-3.メンバー
エルンスト・シェーファーがドイツの領事館に現れたときにSSのメンバーだったチョン・キング、1935年。シェーファーはちょうど、主にインドや中国といったアジアの一部を介して旅行から戻ってきていた。遠征隊の他の2人の隊長は、土着の部族による恐怖の中で彼を見捨てなければならなかった。シェーファーは全くの障害から大成功をおさめ、遠征から帰ってきた。SSは留意し、総統の下でのSSが促進させるといった通知の手紙を送り、彼の冒険のコレクションが整理されてあるフィラデルフィアからドイツに召喚させた。
1936年6月、シェーファーはヒムラーと会談した。その結果としてチベットへの遠征隊組織を開始するためにシーヴァースとファルケに知らされた。シェーファーは困難な旅に適しているだろう若くて最適な24歳の男性を募集した。カール・ヴィンナルト(有名な探検家のヴィルヘルムフィルヒナーの助手)はチームの地質学者であった。また、24歳のエドモンド・イェールは、遠征隊を整理するための技術リーダーとして選ばれた。38歳で比較的古いチームメイトであったエルンスト・クラウス(同じ名前のドイツの生物学者と混同しないように)は、映画撮影をすると共に昆虫学者であった。人種科学の専門家だった26歳のブルーノ・ベガーはハンス・FK・ギュンターの学生だった。ハンス・FK・ギュンターはチームの人類学者であった。また、ブルーノ・ベガーは、1937年、シェーファーがチベット探検に出かけるというニュースを聞いたとき、ベルリンで人類学を学んでいたという。しかしシェーファーとベガーがなぜ結びついたか。それは2人が、1935年、人種問題を含む科学的問題を調査するという目的で、ヒムラーが創設した親衛隊(SS)組織アーネンエルベの隊員だったという。ヒムラーは、チベット人がスカンジナビア(北欧)地方から移住していった後裔であり、そこには失われた大陸アトランティスからの移民たちが建てた偉大なる文明が、かつて存在していたという、まったく正気と思えない妄想にとりつかれていた。この理論を証明しようというのが、ベガーだった。エルンスト・クラウスは撮影を。カール・ヴィンナルトは、写真測量測定を行う。
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