ドルポの話で盛り上がる
2001年11月1日。いよいよ11月に入った。インド北部のダラムサラは日中、外を歩いている時はまだまだ暖かいものの、夜になると急速に気温が低下していく。それまで毛布一枚で寝ていたが、厚手の布団に変わった。それでも暖房施設の無い部屋で夜を過ごす時は寒さで震え、布団に潜り込んで「旅行人」などを読んでいたものである。しかも9-10-3の部屋は北向きにある。昼間でも日が差さないのでかなり寒い。CADの授業でやってきたツェリン・ドルジェやロプサン・ダワ・ラもやっぱり寒く感じたのか、
「なんでこの部屋はこんなに寒いんだ!!!」
とぼやいていた。
「ダワ・ラの家は南向きだから暖かいんですよ。ここは北向きだから」
セーターを持ってきたのは正解だった。インドで寒い思いをするとは思わなかったが、なにせインドは広い。すでにラダックは雪に閉ざされて陸の孤島になっている。反面、インド南部は1年中温暖(暑いかも?)で、過ごしやすいという。何せ西ヨーロッパとほぼ同じ広さをもつ国だから・・・ノルウェーとスペインの違いと言ったらいいだろうか・・・
今日はツェリン・ドルジェは来なかったが、代わりにタシが来た。前にも書いたとおり彼はデラドゥーンから来たチベット人僧侶である。大事そうに自分のノート型PCを抱えて毎日メン・ツィー・カンからやってくる。メン・ツィー・カンはカンチェン・キションの傍にある。そこから毎日歩いて坂を登ってくるのは大変だろうが、彼は本気で真剣にパソコンをマスターしようとしている。だから、こちらもそれに答える必要があった。
初めて会ったときから1週間。ほぼ毎日彼は私の部屋を訪れている。時には5時間も二人でPCと格闘したこともあったな~~~それを聞いたクミちゃんは
「一日5時間もやっているなんて信じられませんよ。ごめんなさいね」
と謝っていたが、私もなかなか楽しい思いをしている。
ホームページの作成はどうかと言うと残念ながらその成果は乏しいものだった。なぜならお互いにWEBに関しては素人だし、ホームページに添付する画像の処理で精一杯なのだ。フォトショップもほとんど使ったことが無かったので見様見まねでオペーレーションしていた。メニューはすべて英語である。その上、彼の経歴と言うか海外渡航歴が半端じゃないのでその話を逆に私が教えてもらっている時間のほうが多いくらいだった。少なくとも30ヶ国は周っているという。日本にはまだ行ったことは無いが、マレーシアなら何度かあると言っていた。それにしても30カ国である。羨ましいかぎりだ。何処からそんな費用が出るのか?肝心なところは聴きそびれてしまったが、おそらく彼の地の仏教団体の招待だろう。もう一つびっくりしたのはタシの携帯の呼び出し音が鳴ったときである。おもむろに懐から携帯を出して「ハロー!!!」といった瞬間はインドの山奥で携帯が使えるとは思わなかったので些かびっくりした。
そんな話をしながら画像(写真)にフォトショップ(違法コピーしたものだ。坊主がそんなことやってもいいんだろうか?なにせここはインドである。なんでもありだ!)で効果を付けたりWEBのリンクを貼り付けたりしている時、気になる一枚の写真が出てきた。
「この写真、どこで撮ったの?」
と聞くと、
「ネパールのドルポだよ。知ってる?ドルポ。昔ながらのチベットの生活様式が残っているところだよ」
というではないか。ドルポ!!!聞き捨てならない。何しろカン・リンポチェ(カイラス山)に次いで私が行きたいとあこがれていた土地である。そこへ行ったと言うのだからパソコン教室は一瞬にしてドルポの事情聴取に切り替わった。
ここでドルポについて語りたい。古くはチベット学者のデヴィッド・スネルグローヴが訪れており、「ヒマラヤ巡礼」なる著書を残している。また、1980年代に入ってからは世界的に知られているジョージ・シャラーに誘われてドルポを訪れたピーター・マシーセンが「雪豹」という著書でドルポを紹介している。どちらも興味深い本なので興味のある方は参照されたい。
約4500人が住むドルポは、北ドルポ(Upper Dolpo)と南ドルポ(Lower Dolpo)に分けられる。南側はヒンドゥー文化の影響が強く、北は純粋なチベット文化が保たれている。ただし、北ドルポは外国人未解放地域である。行こうと思えば特別なパーミットが必要で、必ず旅行会社を通さなければならず、最低2名、ガイドとポーターを伴うことになる。しかも途中、宿泊できるような施設も無く、テントの用意が必要で、食料も持参である。パーミットは10日間で700ドル。それ以上になると1日70ドルが加算される。また、外国人の入域を制限しており、年間250人限定だ。
ドルポには10世紀頃からチベット人が住んでおり、19世紀まではチベットのンガリ地方(西チベット)に属していた。後にネパールの一部に編入されるが、ネパールでも最も隔絶されたところのため、カトマンドゥ政府と直接連絡がとれるようになったのは1963年になってからである。その隔絶された土地の様子は、前述のデヴィッド・スネルグローヴの「ヒマラヤ巡礼」の訳者あとがきに詳しい。一部を抜粋する。
「前略―ドルポ(カルナリ河東支流の源流地)のもつ特異性は、他と違って河沿いの交通網を持たないことであろう。南はダウラギリの連峰に、西はカンジロパ山塊に、東はカルナリとカリ・ガンダキの分水嶺に閉ざされて、しかもムグカルナリの大ゴルジュが河沿いの交通をはばむ。東および南への交通は、5000mの峠によらねばならず、北のチベット高原への峠のほうがはるかに容易である。この地域の特性として、谷は非常に浅く、ずば抜けて高い山は無いが、土地の標高は、最も低いところで3500m。最も高い村の標高は4250mにも達する。―中略―住民の生活を大きく支えているのはやはり牧畜と交易であり、その牧畜も、彼ら自身の土地だけでは充分な牧草が得られない。ドルポが一面の雪に埋まり、南への峠が完全に閉ざされる冬季には、家畜は雪の少ないチベット高原に、国境を越えて放牧に出される。交易は特定の者だけが行うものではない。7月になると、交易品を積んだヤクのキャラバンがそれぞれ一斉に動き出す。交易品は北からの岩塩、羊毛、乳製品など、南からの穀類や日用品などである。」
このスネルグローヴの探険と前後して、イタリアのチベット学者ジュゼッペ・トゥッチかドルポをかすめてチベットを探険している他、日本の川喜田二郎がドルポを探険しているが、特筆すべきは、今から遡ること105年前、このドルポを訪れた日本人がいたことである。1900年夏、約30kgの重荷を背負い、たった一人でドルポを経てチベットに潜入した僧侶。その名を河口慧海という。河口慧海によるヒマラヤ越えとチベット潜入は後年、ヒマラヤ探険史上の画期的偉業とされた。同じころ、中央アジアで活躍していたスウェーデンの探検家、スウェエン・ヘディンが国家的事業として大部隊で探険を行っていたのに対して、河口慧海のドルポを経てのチベット入りはまったくの単独行として極めて対照的である。
ドルポの塩の交易を描いた映画がある。ジャン・ジャック・アノー監督、ビラッド・ピット主演の映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のユニットディレクターを務めたエリック・ヴァリが監督した「キャラバン」である。超然たるヒマラヤを越え、ヤクを従え生きるために塩を運ぶキャラバン隊。地位と伝承、そして後に伝説的な長老となる少年の物語は標高5000mを越えるドルポでオールロケーションされた。それに触発されてNHKがドキュメンタリーを撮ったというだけあって、ドルポの環境は厳しく(厳寒期にはマイナス30度以下になる)、美しい。真っ青なブルーに輝くポスクムンド湖の映像が印象的であった。ドルポに憧れを抱いていた私は何度も劇場に足を運んで見に行ったものである。