見出し画像

4. 予備校へ通う

浪人が決まるとやらなければならないのは予備校への入学である。芸大・美大受験のためには、美術予備校への入学だけでなく、建築科の場合、学科も重要になるので、学科対策の予備校(通常、大学予備校といえばコレ)にも通わなければならない。学科の予備校に関しては、なんでそこに決まったのか忘れてしまったが、河合塾大阪校へ通うことになった。美術予備校は、芸大・美大受験生には必須の雑誌と言われていた「別冊アトリエ 芸大美大をめざす人へ」に載っていた、梅田の近くの中崎町にあった総合美術研究所というところに通うことになるのだが、この美術予備校はなかなか特殊な美術予備校で、ここに通ったおかげで、デッサンにしろ、変な癖がついてしまった。総合美術研究所に通うきっかけは、ただ単純に、河合塾大阪校のある中津から近かったことと、夜間コースがあって、河合塾との両立がしやすかったからだったと思う。ちなみに、いまは休刊というか廃刊になってしまっている「別冊アトリエ 芸大美大をめざす人へ」は、大正13年(1924)に創刊した美術雑誌「月刊アトリエ」の別冊として、昭和55年(1980)に創刊され、美術家、デザイナー、建築家、映像作家、イラストレーターなどを目指し、 芸大・美大進学を望む受験生に実技の基本から合格レベルまで、段階を追って実力を養成する、唯一無二の美大受験情報誌であった。3月「受験準備号」、5月「受験対策号」、7月「夏季特訓号」、9月「入試案内号」、11月「受験対策直前号」の5冊でフルサポートされていて、受験生はもちろん、進路指導や美術の先生方、絵画教室・予備校講師に受験本としてだけではなく、テキスト・参考資料として活用されていた。
さて、私が予備校に通っていた1987年~1989年頃というのは予備校の黄金時代とも言われ、駿台予備校、河合塾、代々木ゼミナールの三大予備校が競って全国に校舎を建設し、全国制覇へ向けてしのぎを削っていて、有名講師、カリスマ講師の引き抜き合戦もすごかったらしい。予備校講師はパフォーマーであり個性的なキャラクターを演じる講師が多く、予備校の授業は大学よりおもしろいとさえ言われ、予備校の人気講師の授業は、大教室が超満員になり、いつも生徒が溢れていた。授業中に歌を熱唱したり、教壇に並べられた差し入れのビールを一気飲みする先生もいた。また、著名な文化人を招いての講演や音楽コンサート、映画上映など様ざまなイベントが行われ、予備校は高校や大学にはない独自の文化空間を創っていた。いまやタレント予備校講師といえば、「いつやるの? いまでしょ」のフレーズでブレイクした林修先生の印象が強いが、私の世代では、真っ先に思いつくのは、「金ピカ先生」こと佐藤忠志先生である。
佐藤忠志先生は、1977年に代々木ゼミナール講師となり、恰幅(かっぷく)の良い体格に派手な高級スーツと金色の高級腕時計を身に付け、時に教壇で日本刀を振りかざすパフォーマンスをも見せる独特のヤクザ風の風貌と、その外見と裏腹に論理的で緻密な受験英語の教授法で金ピカ先生として一世を風靡し、旺文社大学受験ラジオ講座も担当した。1988年に東進ハイスクールへ移籍。さらにタレント活動にも進出し、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などに出演した。Vシネマでの役者デビューに加え、秋元康氏のプロデュースでCDまで発売している。1992年に予備校講師を引退し、その後はおもにタレントや評論活動に重きをおいていた。一般にはその外見やマスコミへの露出からきわもの扱いされがちだが、1986年の時点で『ズバリ!合格の英単語』、1987年には『ズバリ!合格の英熟語』、『ズバリ!合格の英文解釈』を刊行し、大学入試英語の「時事英語」化にいち早く対応していたとされる。1989年の『金ピカ先生の総仕上げ時事英単語集』は著者自身が「教科書には決してでてこないが、入試にはでてくる最新の単語を網羅。(中略)私の全著作中、発売部数は最下位から2番目。一流大学受験生を対象とした著作で、内容には自信があるが、確かに売れなかった」と述懐しており、時事英語対策への著者のこだわりを示している。1990年に出版した『ズバリ!合格の英作文』では難関大学の英作文(和文英訳)問題に対して「模範解答」「発想転換解答」「ゲリラ解答」の3種類の解答例を提示し、中学英語のレベルで英訳する方法を紹介した。一方、長文読解問題に対しては、「同時通訳方式」として、意味・文構造の切れ目にスラッシュを入れ、それぞれに対応する訳語をつけるという手法をとったため、「すでに英語がある程度できる人」向けといった感は否めなかった(これは佐藤の方法にかぎらず、同時通訳〔直読直解〕方式自体がかかえる問題)。また英文法を軽視しているという点についても「ネイティブでもないかぎり、実際に英語を理解する際には英文法をつかわなければならない」という批判もある。また、発行前数年間に出題された入試問題にみられた、あまり一般的でない英単語を『ズバリ!合格の英単語』に入れていたことを自慢していたが、このような高校英語を逸脱した単語は注釈(和訳)があるのが普通であり、覚えておく必要のない単語であるという批判があった。全盛期には1コマの授業で200万円を受け取り、年収は2億円を超えていたという。だが、カリスマ講師という「役回り」だけでなく、実際の私生活もかなり派手だったようで、何台ものクラシックカーを乗り回し、8億円の豪邸を建てたという話もあった。だが、こうした浪費をやめることができず、最終的にはまったくお金がなくなってしまった。気づけば一文無しになっていた。電気も止められ、家の中は真っ暗だったと言われる。最晩年は生活保護を受けながら失意の余生を送っており、死の直前の2019年8月末に週刊現代が取材に訪れた折には、前年の報知の取材時よりさらに健康状態が悪化し、ほとんど食事も摂らずに甲種焼酎を飲み続けてやせ細り、往年の面影がほとんど見られないほどに変わり果てた姿となっていた。2019年9月24日朝、デイケアセンターの職員が佐藤の自宅を訪問したところ、冷たくなって倒れていた佐藤とみられる人物を発見、死亡が確認された。68歳没。予備校の衰退と、カリスマ講師の没落をも象徴する先生だったと言える。私は直接、佐藤忠志先生の授業を受ける機会はなかったが、いわゆるカリスマ講師の授業は、当時は楽しかった思い出がある。
さて、私の河合塾での予備校生活は、あくまでも学科対策だったので、芸大受験・美大受験コースではなく、国公立理系コースに入学した。その入学式での出来事であるが、私のその後の人生を予言するようなエピソードがある。
河合塾大阪校の入学式とオリエンテーションの前日、中学時代の同窓会が生駒の「養老の滝」だったと思うが、居酒屋で開かれた。高校を卒表したと言ってもまだ全員未成年である。本来、飲酒・喫煙はダメだが、そんなことは誰も気にせず、みんな飲みまくった。ほかの卒表性たちは、ほぼ地元の高校に進学したので、高校に入ってからもそれぞれ交流があったと思うが、私の場合は、一人で北海道の函館の高校に行って寮生活したので、同級生たちとは没交渉で、ほとんど浦島太郎状態で、話す内容もなく、ただひたすら飲みまくっていた。と言っても、まだアルコールを飲みなれているわけではなく、酒の飲み方や、自分の許容量を把握していなかったので、すぐに飲みすぎて、居酒屋のトイレで何度も吐く羽目になった。料理にもあまり手をつけず、ビールだけ浴びるように飲んでいた。同窓会が終わって、級友の車で実家まで送ってもらったあとでも、実家のトイレや浴室で吐きまくった。そんな姿を姉が哀れみのこもった目で見ていた記憶がある。なので、当然、予備校のオリエンテーションはひどい二日酔いで出席した。
河合塾大阪校での生活は、初めの1ヶ月くらいは国公立理系コースの履修科目の授業を真面目に受けていたが、そのうちだんだんサボるようになり、履修表に関係なく、自分の受けたい人気講師の授業だけ受けて、あとは遊んで暮らす毎日になった。当時、好きだった先生は日本史の人気講師で、授業が始まる前の教壇には学生からの差し入れの酒が並び、飲みながら授業をする先生で、学生からの人気も絶大で、特別授業があると、あっと言う間に申し込みが殺到して、徹夜で並んで申し込みする予備校生もいたほどである。
また、私の第一志望の東京藝術大学美術学部建築科の2次試験の世界史・日本史の試験は、東京大学と同じ論述式の試験で、これに関しては、東大文系受験コースの日本史・世界史の授業に潜り込んで、論述のトレーニングを行った。例えば、東大日本史問題の特徴としては、まず歴史上の出来事についての記述・年表・図表といった資料を与えた上で、「なぜXXXなのか」といった問いを立て、150~200字で論述させるといった形式が一般的で、これでは、単なる知識の詰め込みだけでは対応がおぼつかないのである。世界史も同様、第1問が450~600字超の大論述、第2問が30~120字程度の小論述を複数題、第3問は記述式で語句を答える問題が中心になる。東京藝術大学美術学部建築科の2次試験の日本史の過去問の1例を挙げると、水墨画を完成させた雪舟作の「秋冬山水画」と日本の初期水墨画を代表する画僧・如拙作の「瓢鮎図」の2つを提示して、両者の違いを300字で論述させる問題が出たことがある。
「瓢鮎図」に見られる初期水墨画は、禅の思想を表すもので、発案者は室町幕府の第四代将軍の足利義持で、その命令により、絵は如拙という画僧が描き、またその問いに対する答え(思いや感想)を禅僧たちが詩の形で書き付けたこともそこに記されている。「瓢箪で鯰をおさえとる」というテーマは「鮎魚(ねんぎょ。本来、『鮎』は鯰を意味する)竹竿(ちっかん)に上(のぼ)る」(苦労して成功するという意味)という中国のことわざを土台として、それに瓢箪を付け加えたもので、つまり、鯰や竹(絵の中に竹が描かれていたことを思い出してください)から連想される「滑(すべ)る」というイメージに、やはりツルツルした瓢箪を加えて成った水墨画である。要するに、水墨画は禅僧の教養であった。それに対して、雪舟の水墨画は、禅宗の思想や中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点で、絵画として独立した分野を切り拓いた違いがある。東京藝術大学美術学部建築科の2次試験の日本史の試験では、この違いを300字で論述しなければならないのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?