29.建築との出会い
高校時代は呆れるほど勉強しなかった私であるが、本だけは大量に読んでいた。それは前述した「フールズメイト」の影響からである。そこで紹介されていたアーティストやミュージシャンがJ・G・バラードやフィリップ・K・ディック、ウィリアム・バロウズなどの作家から多大な影響を受けたと書かれてあると、自分もそれらの作品を読みたくなった。しかし、函館では手に入らない。奈良の実家に帰省した時、大阪の大手書店で買ったそれらのSFや小説を函館に持って帰るのだが、すぐに読み終わってしまう。それで、函館でも手のはいる本を探し当てたのだが、貧乏な高校生の身であるので、なかなか買うことができない。唯一買えたのは、フェリックス・ガタリとアントニオ・ネグリの共著『自由の新たな空間――闘争機械』(朝日出版社, 1986年)くらいである。
「フールズメイト」にもインタビューが載っていたフェリックス・ガタリはフランスの思想家・精神分析学者である。初めはジャック・ラカンのもとで学ぶが、後に袂を分かつ。1968年五月革命以降、ジル・ドゥルーズに出会う。ドゥルーズとの共著に『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『カフカ』、『哲学とは何か』がある。政治犯救済運動の推進の一方、ボルド精神病院に勤務し、精神医学改革の運動を起こしてきた。現代でも、情報論のピエール・レヴィらに大きな影響を与え続けている。
読みたい本はたくさんあるのに買えないと、後は、学校の図書館で見つけて読むほかはない。そういうわけで以後は図書館に入り浸ることになった。だが所詮、高校の図書館である。サブカルチャーや過激な本は置いていない。
しかし、活字への欲望は抑えることが出来ず、手当たりしだいの本を乱読した。主に読んでいたのは現代中国の本と建築の作品集である。前者はこれから将来は中国の時代が来ると感じていたことであり、後者は小さい時から建物が大好きだったからである。それ以来、図書館は学校の中でいちばん身近な存在になっていった。中国の経済発展は20年後に身を結ぶことになる。
そういう学校生活を送るなかで、たまたま中間試験の数学の成績がよかった。あまり勉強しないでも成績がいいのだから、もっと勉強したら学年上位に入れるかと思ったのだが、そうはいかなかった。教科書に載っている事柄は退屈この上ない。高校時代は全く勉強しなかった反動で、大学に入るとあらゆる講座を受けることになる。
数学の成績が良かったことから。もしかしたら自分は理系が向いているのではないかと思うようになった。父は某国立大学の応用化学を卒業している。これは、もしかしたら遺伝ではないだろうかと思ったが、私は科学の研究にあまり興味が持てなかった。そこで白羽の矢が立ったのは建築である。当時、私の頭の中には建築と言うと工学部建築学科しか思い浮かばなかった。理系に進むなら建築学科だ。それ以外に選択肢はない。
もともと私は小さなころから神社仏閣や城塞が好きであった。大阪に住んでいた時も庭で砂で作ったお城で一人で遊んでいた、根暗な子供であった。誕生日に買ってもらうプラモデルも全てお城のプラモデル。それを買ってもらった親戚のおばさんに、
「何で他の子は車や飛行機のプラモデル買うのに、何でこの子はお城なんや?」
と言われたものである。
そういうわけで、建築を志すようになった私であるが、好きな建築と言うとスカイスクレーパー、いわゆる〈摩天楼〉だ。そこでヴァルター・グロピウスの推薦で、1930年からバウハウスの第3代校長を勤めたミース・ファン・デル・ローエの「シーグラムビル(1958)」や「レイクショアドライブ・アパートメント(1951)」、ミノル・ヤマサキのニューヨークの「世界貿易センタービル(1966)」を飽きることなく眺めていた。特に、「世界貿易センタービル(1966)」は私が建築を志すきっかけになったビルディングで、私のデザインの原点である。装飾を一切排除したミース・ファン・デル・ローエの標語 「Less is more.」は私のデザインの源点である。
さらには、我が母校の木造ピンクの旧校舎は、一般によくみられる平行の校舎配置ではなく、どこか刑務所を思い起こさせ、教室にも工夫が施され、窓の奥まで外からの光が入ってくるように天井は傾斜している。こうした建築環境で多感な青春時代を過したことも建築を目指す動機になったのかも知れない。