授業開始
ダラムサラ=マクロードガンジで過ごすこと1週間くらい経った頃だったろうか?レストランのスタッフの誕生日パーティーの席だったと思うが、NGOの高橋さんからそろそろCADの授業を開始して欲しいと切り出された。
「ダラムサラにも慣れたでしょうから、そろそろ授業を始めていただけませんか?」
ダラムサラに来た目的は本来それなのだが、いざ、はじめるとなると急に緊張してくるものである。そこでVectorWorksの講義の準備をすることになったのだが、どうやって教えたらいいものか?正直言って戸惑った。マニュアル本も持ってきていたのだが、それはすべて英語で書かれている。しかもマニュアルであってチュートリアルではない。その上、私はそれを読みきって把握していない。厚さ3cmもある英語のマニュアルを1週間で読むことは不可能であろう。VectorWorksの英語版が届いたのが8月20日、インドに来たのが8月31日。そして滞在すること10日くらいで読破することは神業だ。私には出来ない。それにしてもどうしてパソコンのマニュアル本というものはあんなに分厚いものなのだろうか?ほとんど百科事典である。会社で入社当時から使っていたEWSのCADのマニュアルはUNIXのマニュアルも含めて全冊そろえると厚さ1mを超えるほどだったが、まだ日本語で書かれていたから救かった。さすがにすべてを読むことは出来なかったが、日常的に毎日使っていれば、UNIXのコマンドも多少のオペレーティングは出来るほどにはなっていた。なにせ1200万のシステムである。選んだ私が使いこなさなければ大変な目にあう。責任は重かった。日夜CADと格闘すること8年間。いまから考えるとよくやった方ではないだろうか?自分で自分を褒めたくなってくる。
さて、話をダラムサラに戻そう。英語で教えるので英語のマニュアル本を使って教えるのがベターだと思う。わからないことがあればマニュアルのそのページを読ませてやればいいだけだから。だから本当はもっとゆっくりかけてマニュアル本を読み込んだ後でインドに来るべきだったのかも知れないが、中原さんに急かされていたものだから、そんなことをやっている暇はなかった。日本で出ているハウツー本で基本的なオペレーティングをマスターしただけでインドに来たのである。マニュアルを貸してやれば英語がわかるチベット人だから理解できるかもしれないが、読むとは思えない。仕方がないので日本のチュートリアル的なハウツー本を教科書に使って授業を始めることにした。前もって高橋さんからは
「2人が授業を受けたいといっています。2人ともすごい楽しみにしていますよ」
と言われていたので、よし、やろう!!!という気力と同時に、下手な教え方で相手にされないとこの後、11月の末に帰るまで惨めな思いをするだろうな~と思い、次第に事の重大さが気になるようになった。CADを教えることは以前の会社でもやったことがある。それはVectorWorksではなく、JW-CADだったが・・・。まあ、ダメだったらダメだったのことでこっそり日本に帰ろうか?
当日の午後4時、9-10-3のコンピュータルームを借りて準備をしていたところ、2人のチベット人が高橋さんと建築家の中原さんとともに教室に入ってきた。緊張の一瞬である。
まずはCADというものがどういうものかということから簡単な説明を行った。
「このCADソフトはVectorWorksといって、建築の基本的な2次元の図面だけでなく、3次元の高度なモデリング・レンダリング機能をもったCADシステムで、リアルなパースも作成することができます」
そんなことを言っても2人は理解できないだろうとは思いながらも即席の授業は開始された。日本語のハウツー本を見せながら拙い英語で説明すると2人とも興味深そうにPCの画面を覗き込んでいる。まったくCADを知らない人にCADの指導をするのは始めてである。しかも英語だ。少々のまどろっこしさはあったかもしれないが、こちらも精一杯である。手描きの図面とどう違うのか?作図の第一歩から説明しなければならない。
「CADといっても特別な描き方をするわけではありません。まずは基本的な設定から。メニューバーのPageからSet Print Areaを選び、Sizeで用紙のサイズ選びます。ここではISOA4サイズを選択します。続いてスケールの設定です。Layer を選択してLayer Setupを開き、Scaleからスケールを設定します。ここでは仮に1:100の図面を作成することにします。それから基準線を描きます。線を作図するためにはツールバーの/をクリックして任意の線を引きます。線の種類は・・・」
そこまで話して2人の様子を見てみると、なんだかポカーンとしていた。大丈夫だろうか?と、不安が過ぎる。まあ、確かにCADを最初に触るときには、それまでの手描きの図面とは違ってCAD特有の描き方や3D機能(3DCADの場合)を持っている。私も卒業研究でCADをはじめて触ったときには戸惑ったものである。しかもそのときはPCではなくてEWGだったのでUNIXのコマンドも覚えなくてはならなかった。
「線の種類は・・・」以降を説明しようとした時、それまで興味深そうに眺めていたチベット人の一人がもどかしそうに囁いた。
「説明がよくわからないので、具体的に図面を描いてもらえませんか?」
私の教え方がまずかったのだろうか?ちょっと冷や汗ものである。
「じゃあ、たとえばどんな図面を描きたいのですか?」
そう言うと彼は紙を取り出してきて簡単な平面図を描いた。それを見て私がCADでトレースする。ほとんど同時進行で図面を描いていった。
「壁厚は?柱の間隔は?窓やドアをどこに付ける?」
彼が紙にそれを描いているのと同時に私はCADで図面にしていった。
「CADの利点はね、単純なコピー&ペーストだけではなく、XYZ座標に複数のコピー&ペーストができることです。コピーだけではなく、はじめから基準線の設定をやっておけばCADはそれをオートマティックに実行してくれます。その基準線に対してどういう形式でも柱や壁を配置していけばいいんですよ。さらにオブジェクトの変更や配置の移動をするときなど、手描きならきれいに消してから最初から描きなおさなければならないところ、CADだと属性の変更や移動をするだけで、余計な手間をとることはありません。プリインストールされている建築用のオブジェクトも豊富な上、自分で気に入ったオブジェクト(窓やドア図面記号)も作ることができます」
相手がどれだけCADの専門用語が理解できたのか解からないが、私は説明しながら数分でちょっとした平面図を作成した。それを見ていた2人は驚いたようだったが私はいたって平静を装った。まあ、教師であることの威厳を示したかったのかもしれない。「ほらね。CADって便利でしょ」という感じである。
「じゃあ、今日はこの辺で」
チベット人建築エンジニアのうち、私に簡単な図面を描いてほしいと言った1人はその後2度と来ることはなかった。たぶん諦めたのだろう。しかしもう1人はかなり興味を持ったようである。そのチベット人が今後長く付き合うことになるツェリン・ドルジェだ。パソコンをシャットダウンして後かたづけし終わったとき、ヤツがなにやら英語で喋った。英語のヒアリング能力のない私ははじめ何を言っているのか解からなかったが、高橋さんがもう一度解かりやすい英語で言ってくれたことによると、どうやらVectorWorksのソフトのCDをコピーさせてほしいらしい。しかも高橋さんにはゲゲンと言っている。チベット語でゲゲンといえば先生のことだ。
「せっかく日本から先生がダラムサラに来ているので勉強したいとの事です」
先生といわれれば照れくさい。
「いいですよ。それから今度は直接私の部屋に訪ねてきてください。その方が手っ取り早いから。夕方の4時頃には部屋にいることにします。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?