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ラダックとハウスミュージック

2001年9月13日。この日は朝からレストランが慌しかった。いつもなら営業は昼の12時からなので、朝の9時頃、日本語の本や雑誌(日本食レストランなので日本人旅行者の溜まり場となっており、彼らが残して帰っていった本や雑誌がレストランの本棚に並んでいる。また、バックパッカー御用達の雑誌「旅行人」も定期購読していた)を借りにレストランにノコノコ行くと、スタッフ数名がのんびり仕込みや準備をしているだけなのだが、この日に限ってはほぼ全員集合していた。しかも、2000年の12月7日にダライラマがいらっしゃって祝福を受けた由緒正しいレストランなので普段は「ノン・アルコール&ノン・ドラッグ」をモットーとし、全席禁煙を唄っているにもかかわらず、この日に限ってはどこから調達して来たのか分からないがビールが数ケース用意されていた。不自然に思ってチベット人マネージャーのソナムさんの奥さんの直子さんにその訳を聞いてみると、
「今日はレストランの創立記念日なので営業はお休みしてみんなで一日パーティーです。準備が整ったらお呼びしますから待っていてくださいね」
とのこと。なるほど・・・
部屋で日本から持って行っていたハウスのMIXCDをかけながら「旅行人」のバックナンバーをのんびり読んでいるとそのうち準備が整ったらしい。降りていってみると、パーティーはすでに始まっていた。テーブルにはビールやジュース、料理の山がのっており、みんな思い思いに食べたり飲んだりしていた。私がテーブルに着くやいなや、すでにビール数杯で出来上がってしまっているマネージャーのソナムさんが微笑みながらにじり寄ってきてコップにビールを注ごうとする。
「いやダメダメ、私はお酒が飲めないもので・・・ジュースの方で結構です」
真っ赤な嘘だ。本当は大酒飲みである。そのうえ一杯飲んだらブレーキがぶっ壊れているアルコール依存症なのである。「一杯くらいなら・・・」という悪魔の囁きと「ダメダメ!!!ここはぐっと我慢、我慢」という天使の囁きが頭の中を交錯する。その時、私の頭はほとんどドストエフスキーだったかもしれない。しかし、結局は天使が勝利した。ここで再飲酒して潰れるわけにはいかない。一杯くらいならなんでもなかったかも知れないが、それがきっかけとなって今まで病魔の手に落ちていたのである。インドで潰れるわけにはいかない。現地ではどうしようもなく、おそらく強制送還の身になっていただろう。ソナムさんは仲間が減ったとでも言うようにさびしそうな顔をして向こうへ行ってしまった。
さて、話はパーティーに戻る。少し緊張しながら(まだダラムサラ到着13日目である)隅のほうでジュースを飲みながら料理をパクついていると、建築家中原さんの周りでトランプゲームが始まった。しかもポーカーなどと違ってギャンブル性のない「婆抜き」だ。どうせなら花札がやりたかったが・・・インドの山奥で「月見で一杯」。これ如何に?
「ウワー来た、来た。日本人バックパッカーのお決まりの和みパターン。インドのゲストハウスでトランプゲームやってみんな仲良し」
ここで場の雰囲気は私の苦手とする「海外日本人交流会」の様相を呈してきたが、中原さんが「君も加わらないか?」と言った一言で脆くも私のツッパリ=プライドは破られることになる。ここでツッパリ通さなかったのが仕事で営業をやってきたおかげか?とりあえず棘が立たないように仲間に加わった。ただ、心の中は「営業!!!営業!!!」である。
とにかく、ゲームの輪に加わった私であるが、最初の偏見に反して意外とゲームは盛り上がった。不思議なものである。日本にいたら「ケッ・・・」と言ってしまうことが、なぜか楽しいのだ。これが海外にいるということのマジックか?
「婆抜き」に参加していた日本人は中原さんと私、それに同じボランティアで来ていたノリちゃんとクミちゃん(どちらも女の子)、それにたまたま居合わせた日本人旅行者のA君、B君、Cちゃん(名前を忘れてしまった。すまぬ)である。「婆抜き」が一段落してくると、A君・B君の旅の話題に話が展開していった。二人はダラムサラに数日滞在した後、ラダックに向かい、1ヶ月ほどラダックを旅した帰りに再びダラムサラに寄るとのことであった。
憧れの地、ラダック。私がインドに来る1ヵ月半前の7月の終わりに友人のユミ・ツェワンがラダックを旅している。ラダックから届いたユミ・ツェワンの葉書を読み返していると、毎日ゴンパ(僧院)巡りで曼荼羅やタンカ(仏画)を見て過ごしていたとの事である。とにかくド田舎で電気も一日3~4時間しか通じない。その代わり夜空は星が美しく、澄んでいる。
ラダックはインド最北部、パキスタンとの間で領有権が争われているジャンムー・カシミール州に位置しているが、チベット本土で消えつつあるチベットの伝統が息づいているため「小チベット」とも言われている。古くはチベット王家の支配を受けたり、ラダック王国が逆に西チベットのグゲの地を支配するなどして元々チベットとの絆は強かった。ラダック王国とその仏教文化が最も栄えたのは17世紀のサンゲー・ナムギェル王の頃。レーの王宮やヘスミ・ゴンパはその当時建てられた代表的なラダックの文化財である。
19世紀に入るとラダッ王国は、シーク教徒のドグラ族に滅ぼされ、イスラム教徒の多いカシミールに併合された。現在のラダックはチベット問題と同様、複雑な政治的位置に存在している。東には中国がインドに無断のまま占領してしまったアクサイチン高原があり、すぐ北にはパキスタンとの停戦ラインが引かれている。カシミールの住民は多くはイスラム教徒なのでパキスタンへの編入を望んでいるが、逆に仏教徒の多いラダックはカシミールからの分離独立を求めているなど問題山積の地である。
ダラムサラからラダックに陸路で行く場合、ツーリストバス(250ルピー、所要時間9時間)でマナリへ向かい、そこでさらにレー行きのツーリストバス(500ルピー、所要時間2日間)に乗り換えなければならない。さらに自然の擁壁としてヒマラヤ山脈が走っているため10月半ばを過ぎると峠は雪で閉鎖され、ラダックは陸の孤島となる。アクセスは一旦デリーまで引き返して国内線の飛行機でレーに飛ぶしかない。
私もボランティアの仕事がなかったら彼らと同じようにラダックへ向かうのだが・・・まあ、仕方がない、チベット人にCADを教えるということが私の使命である。
その後、会話は熊野からやってきたというちょっとミステリアスな女性Dさん(忘却、忘却)も加わってアメリカの9・11の話になり、テクチェン・チューリンで行われたダライラマの特別法要やダライラマのパレスの周囲を巡る巡礼路でのキャンドル・マーチの話に移り変わり、だんだん夜も深まっていった。
夜も深まり酒が入ると、今度はダンスが始まった。チベット人は酒と歌と踊りが大好きである。レストランのステレオは普段は静かでオリエンタルな環境音楽がかかっているのだが、この夜に限ってはノリノリ(?)のダンスミュージックがプレイされていた。レストランの若いチベット人女性スタッフが皆をリードして踊っている。おそらくどこかでクラブカルチャーというものに触れたのだろう。踊りは上手かった。話を聞くと自分たちでパーティーもオーガナイズしているそうだが、果たしてクラブの聖地NYからかけ離れたインドの山奥でクラブカルチャーは成立するのか?
何度も「一緒に踊りませんか?」と誘われたが、そこはダンスミュージックフリークの私である。ラリー・レヴァン直伝のガラージュ・サウンドかジョー・クラウゼル&ティミー・レジスフォードなどのNYのどす黒い音、あるいはリトル・ルイ・ヴェガなどのニューヨリカン・サウンドでなければ満足しない。しかし、ここはダラムサラ。選曲はいまいちだ。気に入らない選曲で踊るのはさすがにプライドが邪魔をした。しかし、踊らなくてはこの場に溶け込めない。そこで考えたのが、自分の部屋からCDを持ってきてレストランでプレイすることである。持ってきたのはMasters at workの2枚組み2つ、それにMINISTRY OF SOUNDから発表されたゴッド・ファーザー・オブ・ハウスことフランキー・ナックルズのCDだ。どれもハウスミュージックの王道で本場のNYサウンド(フランキー・ナックルズはシカゴで有名だが・・・)である。さあ、どうだ?
どこの誰だかわからないディスコ・サウンドと違い、ハウスの大物が手がけたMIXはまず低音のヴァイブが違う。そのうえさらにレストランのステレオに付いていたイコライザーで低音を思いっきり強調したので、普段踊ることのない人まで身体を揺らし手閉まっていたように見えた。1曲目のKim English/Supernaturalがかかった瞬間、ショーケースに凭れかかってクールにチベット人のダンスを見ていたノリちゃんの身体も揺れていた。踊っていたチベット人のボルテージが上がっていく。男の子は互いに肩を抱き合い、女の子は向かい合ってダンスに興じている。これでこそパーティーだ。私も踊ることは吝かではない。「ここは一つ、90年代の東京のクラブシーンを全速力で爆走したダンス・スレイヴが踊ってやるか?」という感じでチベット人の輪に加わって1時間ほど踊り狂った。それからどうやってパーティーはお開きになったのか知らないが、私は昼前からのドンチャン騒ぎで疲れてしまい、いつの間にか自室に戻って寝てしまった。
若いチベット人にハウスミュージックがどう聞こえたか?興味はあるが、それ以後、音楽の話をすることがなかったので分からない。ただ、元少年僧だったという15歳くらいのチベット人の男の子はテクノ&トランスが好きだと言っていたのが印象に残っている。そういえばラサでもテクノがかかっていたな・・・セラ僧院に行くタクシーの中で聴いたジュリアナ=ヴェルファーレ路線のイケイケの曲にはびっくりしたものである。それにしても、NYの黒人(しかもゲイ)が生み出したハウス・サウンドはメジャーなテクノにはかなわないのだろうか?ハウスはアンダーグラウンドな音楽であるな~~~と改めて痛感し、この後、一人自室でノート型PCの小さなスピーカーから流れるハウスミュージックに合わせて一人で踊る日が続くことになる。

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