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5.津軽海峡春景色

大阪の伊丹空港を飛び立ったANA機は一路羽田へと向っていた。大阪~東京間だと、普段なら新幹線を使うのだが、目的地は北海道の函館である。大阪~千歳の便はあったものの、それだと千歳から函館まで列車で行かなければならない。遠過ぎる。当時はまだ、大阪~函館を結ぶ直行便は就航されていなかったので、羽田で乗り換えなければならなかった。飛行機に乗るのは何年ぶりだろうか?久しぶりの飛行機にちょっとワクワクした。
機内の放送を聴こうと思ってイヤホンを耳に付けるとそこからはハービーハンコック・カルテットの渋いモダンジャズが流れていた。ウィントン・マルサリスのトランペットが激しくバイブする。
当時の私はUKハードロックを聴きながらジャズも聴いていた。当時のお気に入りは「ナニワ・エキスプレス」というフュージョン・バンドであった。1980年当時は上方フュージョンともいわれ、ライブパフォーマンスで人気を獲得した。中学3年生の時、当時付き合っていた同級生の女の子に一緒に「ナニワ・エキスプレス」のライブに行こうと言ったのだが親の許しがもらえないと言って断られた甘酸っぱい思い出がある。
 また、近所のレコード屋(CDはまだなかった)に行って、マイルス・デイヴィス・グループに在籍していた ウェイン・ショーターと、ジョー・ザヴィヌルの2人が中心になり、1971年に結成されたエレクトリック系サウンドをメインとしたウェザー・リポートの「8:30」というライブ・アルバムを買ったとき、
「兄ちゃん、渋いな~~~。ジャコ・パス(ジャコ・パストリアス)最高やろ?」
と言われたことがある。総じて音楽に関しては早熟だった。
座席は中間にあったので窓からの下界の景色は望めない。機内誌をパラパラ眺めながら、ただただ、当時お気に入りだったジャズに耳を傾けていた。アナウンスで富士山が見えると言われたが、それがどうしたんだ?あっという間に羽田に着いてしまった。
羽田で函館行きのANA機に乗りかえると、いよいよ北の大地(あこがれのアイヌ・モシリ)へと飛立った。函館行きの機内でも相変わらずハービーハンコック・カルテットだ。季節は4月初め。関西はそろそろ温かくなってきた頃だが、北海道はどうだろうか?明日は入学式に続いて、入寮式も控えている。しばらくは家族と離れ離れになり、唯一の繋がりは電話での会話だけだ。しかし、寂しいという気持ちは全くなかった。これからの生活に対する不安感もない。むしろ、親の目が届かないところで「いけない事」が思う存分出来るかと思う嬉しさと、期待感で胸が膨らむ。ただ、学校の寮は1年生のうちは100人の大部屋生活だ。慣れるまでは多少の戸惑いはあるだろうが、まあ気にしない。
アナウンスの声で、津軽海峡上空を飛んでいることがわかった。今度は窓際の座席だったので下界の様子が覗えた。もう春だと言うのに海は真冬のように灰色をしていて、なんだか冷たそうだ。津軽といえば太宰治の「津軽」を思い浮かべる。フロントライン愛好家である私はこれを読んで、津軽半島の最北端、竜飛岬に行きたいと思ったものである。いまでは太宰治の文学碑が立っており、観光名所のようだが、太宰が生きていた頃は「ここは,本州の袋小路だ。・・・そこに於いて諸君の路は全く盡きるのである」と、彼もこの岬を「津軽」で語っているように、「地の果て」であった。私が向う函館はさらにそのむこうに存在する。
太宰治がこれを発表したのは1944年。35歳の時。すでにバルビツール系睡眠薬の依存が深刻化していた頃だ。中島らもは何かのエッセイの中でこの頃の太宰の様子を語っていたが、残念ながら忘れてしまった。別に太宰治が好きだったわけではないのだが、社会人になってから私は太宰治的人生をおくり、後にトランキライザー中毒になる。(その前に、中島らもと同じ道、アル中街道を突き進むのだが・・・)
飛行機は着陸態勢に入り、機体は傾き、地上が近づいてくる。初めてみる北海道の景色が眺められた。一面に農地や牧草地が広がっており、関西では見ることの出来ない北海道らしい(?)家々が点在していた。大地はまだうっすらと雪化粧をしている。この光景を見て、やっと「北海道に来たんだな!!!」という感慨が高まった。これからの3年間、私はこの地で青春時代を過ごすことになる。
「函館日記」と題しておきながら、ようやくここでタイトルの「函館」に辿りついた。
さて、このあと、どんな出来事が起こる事やら・・・

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