ツェリン・ドルジェとロプサン・ダワ・ラ
2001年9月18日。夕方4時過ぎにCADの授業の準備を9-10-3のコンピュータルームでやっていると、ツェリン・ドルジェが顔を覗かせた。その後ろにもう一人、チベット人が立っている。ツェリン・ドルジェに比べるとちょっと年輩だ。名前を聞くとダワと名乗った。まあ、チベット人にはありふれた名前である。ダワとは「月」を意味する。また、サ・ダワというと月曜日だ。チベット人は仏教的な意味のある名前の他に、生まれた曜日を名乗ることがある。たとえば日曜日ならニマ、水曜日ならラクパ等など・・・
Vector Worksについての説明は前回やったので、この日からは日本から持って来ていたチュートリアルの練習課題を使って具体的なトレーニングを始めようと思っていたが、また新しい人が加わったため、再度簡単なCADの説明を行った。
「Vector WorksというCADはクオリティーの高い2次元の製図だけでなく、ソリッドモデルによるモデリング・レンダリング機能を持っており、基本・実施設計の図面を素早く描くことが出来る他、パレット機能やパースを使ったプレゼンテーションをすることが出来ます。また、2次元のデータと3次元のデータはリンクしており、それぞれの次元で変更したところは他のデータに反映されます」
ここまで、日本で練習代わりに作った2次元の図面と、それを3次元化したモデルをかわるがわるモニター上に現してやると、2人は熱心にモニターを見詰めていた。前回の授業の時と比べるとよりリアルでCADの素人はまず3次元にびっくりするだろう。
「分かりますか?」
CADの専門用語を使って説明したので心配になって聞いてみた。すると、
「素晴らしい」
との答え。分かっているのかな???
分かったのかよく分からないのかこちらが聞きたくなってきたが、先に進むことにする。
「では、まず、このチュートリアルに載っている図面を描きます。まずは見本を見せますから、その後で自分で実際にやってみてください。ただ、インドではフィート&インチの寸法ですが、あいにくこのチュートリアルは日本の本なので、ミリメートル単位の寸法で描きます。フィート&インチに直すとややこしいので、この授業では初めはミリメートルを使わせてください。後に具体的なプロジェクトの製図&モデリングをするときにフィート&インチで進めていくことにします」
まずは私がチュートリアルに沿って基準線から描き始め、その後、壁やドア&窓などを数分で作成していくと、横で見ているチベット人2名の視線は次第にさらに熱くなっていったようだった。じっと私の作業を見ている。彼らにしてみれば、おそらく手品か魔法を見ているような気持ちだったに違いない。私も学生時代、初めてCADを触ったときにはそう感じたものである。今では当たり前の道具となっているパソコン(私が始めて触ったCADはEWSのシステムだ。また、会社に入って導入したCADシステムもEWSである)だが当時はまだ特別なものであった。時代の流れは急である。ドッグイヤーという言葉があるが、技術革新の波は早い。10年ばかりの年月のうちにすっかり手描きの設計は姿を消し、CADが当たり前の世の中になってしまった。
「では、一人ずつ私のPCを使って図面を描いてみてください」
私がPCをまずツェリン・ドルジェの前に置いて彼に描けと促すと、彼は恐る恐るマウスを動かした。だが、まず、最初に何をやったらいいのかまだ分からないらしい。
「手描きの図面を描くときと同じように考えてください。まず、用紙を決めるでしょ?」
Vector Worksの特徴は手描きの延長に近いと言うことである。その点はAuto-Cadと比べるとCADの素人にも分かりやすいだろう。また、私もAuto-Cadは苦手だったので、仮にインドに持っていくCADを決める段階でVectorWorksが見つからず、Auto-Cadをインドに持ってきて教えることを考えるとかなり大変だったかも知れない。その点ではVector Worksに助けられた。
「用紙はメニューバーのPageからSet Print Areaから選びます。とりあえず今回はA4サイズ横描きでいきましょう。SizeからISOA4を選んでください。選んだらOKボタンをクリック・・・」
小さな子供に手取り足取り教えている心境である。今までこれほどCADを懇切丁寧に教えたことはなかった。職場の後輩や部下にはある程度アウトラインを教えたら後はマニュアルを見て自分で勉強しろと言えたのだが、インドのチベット人相手ではそうにもいかない。私が上記の用紙サイズ決定のところを2回くらいゆっくりとやって見せると、ツェリン・ドルジェもなんとなく理解したようで、ぎこちないながらも何とかクリアした。
「では、次に図面のスケールを決定します。ワークスペースのLayer-1を選んでSizeから1:100を選びます。ここではAll Layersにチェックを入れてすべてのLayerのスケールを同じ1:100に設定しますが、逆にスケールの違う複数のLayerを同じ図面に表すことも可能です。たとえば全体の図面と部分詳細といった具合に・・・ちょっと触ってみてください」
またしてもツェリン・ドルジェは恐る恐るマウスを動かしている。
「壊れる心配ないから思い切って触ってみたらどうですか?」
と言ってみてもなかなか思うようにはいかないらしい。何度も同じ操作を繰り返して覚えようとしているらしい。まあ、そうやって身体で覚えたほうがいいのだが・・・
そして次に基準線を描こうとしたとき、ちょうど時間が来てしまったようで、続きは次回と言うことにして、少しばかり雑談をした。すると、それまでそばで見ているだけだったダワという人物がおもむろに話しかけてきた。
「このCADのシステムで幾らくらいするものですか?」
「ソフトだけですか?え~~~っと16万ちょっとだったから、1,500ドルくらいですね。ルピーに換算するとだいたい54,000ルピー」
「コピーさせていただいていいのですか?」
「大丈夫ですよ。個人で使うくらいは・・・」
本当はもちろんダメである。CADのソフトウェアも著作権に守られている。知的所有権の違法コピーは罰せられる。しかし、ここはインドだ。何でもありである。後日、一緒にホームページの作成をすることになるデラドゥーンから来たチベット人僧侶タシ・カイラシに彼が持っているソフト(フォトショップなど)をどこで手に入れたか聞いたとき何度も言われたものである。
「Here Is India!!!」
(ここはインドだ。コピーに決まっているじゃないか!!!)
なるほど・・・
「もし、CADの授業を受けるのが2人だけならわざわざ9-10-3のコンピュータルーム借りるまでもないことなので、次回からは私の部屋でやりましょう。だいたい夕方の4時くらいには部屋にいることにしますから、自由に訪ねてきてください」
そう言ってこの日は2人と別れた。
翌日、ダワというチベット人がもう一人加わったことを一応NGOの高橋さんと建築家の中原さんに報告しようと思ってレストランで2人が打ち合わせしているところに行って話すと、
「ダワって誰???」
といって目が点になっていた。しかし、後日、このダワなる人物が何者であるかが判明する。TCVの偉いさんのロプサン・ダワ・ラ(偉いさんなので敬称をつける)であった。そしてその後の私のダラムサラ滞在は2人のチベット人、ツェリン・ドルジェとロプサン・ダワ・ラとの付き合いで続くことになる。