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9-10-3

9-10-3の部屋に入ると、早速、荷物を解いてベッドの上に整理した。部屋は6畳くらいの広さであっただろうか?コンクリートの床・壁・天井で、床にはブルーのカーペットが敷いてある。ベッドが2つ置いてあり、窓際には机があった。窓際のベッドはこれから3ヶ月の間寝起きするのに使い、残るベッドに衣類などを並べておいた。衣類を収納するクローゼットなど何もなかったからである。ダラムサラには長期滞在する。1週間程度の旅行であれば、いちいちバックから衣類その他必要なものを取り出しても苦にならないだろうが、それ以上の滞在となると収納スペースがないと不便である。私はダラムサラを発つ前まで衣類をベッドに並べていたものである。
トイレとシャワーを調べてみると、案の定、水が出ない。チベット語しか話せない掃除のおばさんに身振り手振りで訴えるが、一言、
「チュー・ミンドゥ(水は出ないよ)」
と言われてしまった。おばさんは水道水の代わりにバケツ2杯の水を持ってきて「これを使え」というようなことを喋った。だが、私にはチベット語はまだ勉強途上にあり、何を言っているのかよくわからない。おまけに電気もつかないという。停電だ。
リュックからパソコンを取り出し、アダプタープラグをつないでコンセントに差し込んだ。建築家の中原さんがきたらすぐにVector Worksの説明と、ボランティアの仕事の打ち合わせをしようと思ったからである。いちおう電圧が違うのでトランスも持っていったのであるがパソコン本体は250ボルトまで対応しているので、逆にトランスを通すと起動できなかった。ただし、MOドライブの電源はトランスが必要である。
Vector Worksを起動させて、マニュアルを見ながらどうやって説明しようかと思案しているところに中原さんが現れた。
「はじめまして、おはようございます。」
「ダラムサラへようこそ。よく来たね」
Vector Worksのパンフレットとパソコン画面を見せながら、インドにくる前に作っておいた日本版のハウツー本の中に載っている練習用課題の2次元図面と3次元モデルを見せて簡単に説明した。すると中原さんは、
「チベット人の奴等に本当に出来るのかな?」
と小さく呟いた。
「とりあえず何をしたらいいんですか?」
と聞くと、
「今日はダラムサラについたばっかりだから、ゆっくり休んだら?奥さんも貴方に会いたがっているから、よかったら家に来ないか?」
日本で何度かメールのやり取りを時に言われていたほど緊急の仕事はないらしい。
「お願いされていた海苔を持ってきました」
「ああ、それだったらレストランのマネージャーに渡してお金もらって」
1階の日本食レストランに下りていくと、マネージャーのソナムさんとその奥さんで日本人の直子さんが開店前の準備をしていた。チベット人の料理人が仕込みをやっていて、日本人ボランティアもそれを手伝っていた。
「これ、頼まれていた海苔です」
中原さんはバイクをレストランの前に停めて待っていた。中原さんのダラムサラの家は、今いる施設からまっすぐにダウン・ダラムサラ方面に下りて行き、中央チベット行政府=亡命政府の役所や図書館があるGangchenKyishongの手前にあった。施設の前のJogibara Roadを下っていけばいいのだが、道が凸凹でバイクでは通れないらしい。そこで、坂道を登っていって、ステート・バンクのところでTemple Roadに入り、ナムギャル僧院とツクラカンの入り口で左折して坂道を下りていった。
中原さんの自宅に着く前に、私が滞在していた9-10-3について説明しよう。
「9-10-3(グ・チュ・スム)」は、中国支配下のチベットで、「良心の囚人」として監獄生活を体験したチベット人僧侶、尼僧たちを中心に、1991年、チベット亡命政府所在地であるインドのダラムサラで発足したNGOである。現在は日本人の資金援助で建てられた施設の2階を事務所として使っている。
「グ・チュ・スム」とは、チベット語で数字の「9・10・3」を意味する。この数字はそれぞれ、チベットで自由と民主化と自治・独立を求める平和的なデモが発生した日付を表している。「9」は、ラサ郊外にあるデプン僧院の僧侶21人が、最初に平和的なデモを行った1987年9月27日の「9月」、「10」は同じラサ市内にあるセラ僧院の僧侶たちによるデモが起きた1987年10月1日の「10月」、「3」はガンデン僧院の僧侶たちによる1988年3月5日の「3月」。デプン僧院の僧侶たちが初めて反政府デモを行って以来、多くの僧侶、尼僧、市民たちが彼らの意思を引継いでデモに参加した。最大規模のデモは1989年3月のデモである。チベット人達は武器を持たず、ただチベットの国旗やチベット語のスローガンが書かれたポスターを手に、「チベットは中国のものではない」「チベットに自由を」と訴えた。これに対し、中国政府は大量の銃と軍隊を投入し、戒厳令を下し(1989年3月から約1年間)、彼らの訴えを力で抑えつけた。天安門事件の3ヶ月前のことである。時のチベット自治区共産党第一書記は、かつての国家主席胡錦涛である。
9-19-3の主な活動は、機関誌『PONYA』(チベットからの使者)の発行(英語・チベット語)、今なお牢獄に繋がれている政治犯たちの名簿作り、釈放運動、拷問による後遺症の治療費の援助などである。また、日本人のNGOと協力関係にあり、共同で施設を運用している。施設では、亡命してきたばかりの元良心の囚人たちへの住居提供、チベット語・英語・コンピューターのクラスの開設、手工芸(ミシン縫製)工房の運営と販売、
レストランでの調理指導と販売などを行い、着の身着のままにインドに到着したチベット難民の自立支援の活動を行っている。
9-10-3執行部スタッフは下記の通り。
イシェ・トグデン(34)メド・クンガ出身、チベットではガンデン寺の僧侶。
独立要求デモに参加し、2度に渡って投獄された。1991年10月、インドに亡命。
アマ・アデ(66)カム・ニャロン出身。1958年に政治的理由で27年の刑を受ける。
釈放されて二年後の1987年、インドに亡命。1999年12月に来日。
*アマ・アデについては後で詳しく述べる。
パルチン(65)カム出身、尼僧。21年間を監獄と労働キャンプで過ごす。
1989年、独立要求デモに参加。投獄から逃れるために亡命。
ナムドル・テンジン(29)トゥルン・デチェン出身、チベットではツァムグン尼寺の尼僧。1990年、独立要求デモに参加。逮捕され、八カ月拘留される。
1991年1月、仮釈放されたときに、亡命する。
中原さんの家に着くと、高橋さんが出迎えてくれえた。彼女の顔は覚えている。彼女を見たのは、2000年にアムネスティ・インターナショナルが主催した「拷問禁止」キャンペーンの一環で「チベットの元拷問被害者の証言ツアー」の大阪会場であった。直接会話を交わしたわけではなかったが、「この人がダラムサラで活動しているNGOの代表なのか~~~」と思って印象に残っていたのである。中原さんと高橋さんは一緒に活動していることは知っていたが、夫婦だとは思わなかった。
「いま、ミルクティーを入れますね」
リビング兼ダイニングのテーブルにつくと、高橋さんに私がダラムサラに来ることになった経緯を説明した。
「病気で入院されていたと聞いていますが・・・」
「仕事のやりすぎで身体が壊れてしまいましてね~~~」
「どれくらいハードだったのですか?」
「毎日、深夜の1時2時まで仕事していましたね~~~。時には朝の5時までやって、一度家に帰って入浴と食事をすませたら、また朝の8時に出勤なんてこともありましたよ。それでも平社員のころはちゃんと残業手当が出るから納得できますが、管理職になったらそんなものなくなりました」
「それでは、かなり儲かっていたのでは?」
「建築の設計ってね、営業用のプラン作りしないとならないことが多くて、その内数%が実施になります。それ以外の図面やパースは紙くずに・・・ほとんどただ働きですよ」
日本で設計の仕事をしていた中原さんは日本での建築設計の事情を知っているらしく、私の話を聞きながら頷いている。
「いま、建築の設計をやるなら、第3国でやった方がいいよ」
「今回のダラムサラ訪問でうまくいくようなら、インドで仕事してもいいと思っているのですが・・・出来ますかね~~~」
「9-10-3の部屋代は長期滞在だったら1日100ルピー(300円)だから、月に1万ルピーあればやっていけますよ。インドは設計の報酬もいいし」
「インドやチベットの建築の設計や施工のやり方がまだわからないので・・・」
「とりあえず、フィート・インチに慣れないとね」
ダラムサラに来た当初はまだ、私は野望を抱いていた。しかし、滞在日数が重なるにつれて夢は脆くも崩れ去る。やはりネックは語学力だった。
「5年のビザが取れるって聞いたんですけど」
「まあ、それは追々ね」
一通り話をすると、中原さんは2階を案内してくれた。この自宅も中原さんが設計したらしい。私が気に入ったところは階段である。いちおう螺旋階段だったのだが、階段を上る足の運びを考慮して、段はジグザグに配置されてある。昨今の日本の建物(特に公共建築物)のきっちりと蹴上げ踏み面が整っている階段に比べ、それは素朴で面白かった。
「寺の方を案内するよ。そのあと飯でも食わないか?」

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