2. はじめに
アドルフ・ヒトラーだけでなく、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の組織である親衛隊(SS)の大将であったハインリッヒ・ヒムラーやルドルフ・ヘスを含むナチス政権の多くの高官は、複雑なオカルト信仰を持っていた。そうした信仰によって、ドイツ人はロサル(チベット暦の正月)の祝賀行事に出席するため、チベット政府の招待で、1938~1939年にチベットへ公式遠征隊を派遣した。
チベットは、長い歴史において国土の一部であると主張する中国の企図と、侵略を防ぐ或いはチベットを保護するという英国の失態に苦しめられてきた。スターリンの下で、ソ連は厳しく、特に仏教、具体的にはチベット仏教の実践形式を、ソ連邦内のモンゴル、およびその衛星国であるモンゴル人民共和国(外モンゴル)の中において迫害した。
それとは対照的に、日本は満州国、及び傀儡国家の一部として併合された内蒙古自治区でチベット仏教を支持した。日本は自国こそがシャンバラだと主張し、帝国政府は日本の保護の下で汎モンゴル連合を作成するには外モンゴルとシベリアを侵略する必要があった。そのために日本の支配の下でモンゴルの支持を獲得しようとしていたのである。チベット政府もまた、不安定な状況に直面し、日本からの保護を得ることの可能性を模索していた。
日本とドイツは、国際共産主義の普及に向かって相互の敵意を宣言し 、1936年に日独防共協定に署名した。これは共産「インターナショナル」に対する協定及附属議定書と、その際に締結された秘密議定書を指す。国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたっている。11月25日、ベルリンで協定が締結された。日本側の全権大使は武者小路駐独大使、ドイツ側はリッベントロップが行った。この席には外務省関係者ではないカナリスが参加していた。ナチスドイツからのチベットへの公式遠征隊の訪問の招待状は、この文脈から及ぼされた。
しかし、1939年8月にはチベットへのドイツ遠征隊派遣のすぐ後、ヒトラーは日本との間の協定を破って、独ソ不可侵条約に署名した。これは、ヒトラー=スターリン条約とも呼ばれる。また、署名したモロトフ、フォン・リッベントロップ両外務大臣の名前を取り、モロトフ=リッベントロップ協定とも呼ばれた。この条約では、不可侵の条件だけではなく、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド及びルーマニアという独立国を、それらの国々の「領土と政治の再配置」を期待しながら、ナチとソビエトの勢力範囲に分けた秘密議定書を含んでいた。それらの国々はすべてこの後でナチスドイツかソ連のいずれかあるいは両方に侵略、占領、あるいは領土を譲ることを強要された。フィンランドだけがソ連の侵略に対する防衛を行うことが可能であり、独立した西側の民主主義国家であり続けた。9月には、ソ連は5月に外モンゴルに侵入した日本を敗北させた。その後、日本とドイツはチベット政府に何も具体的な接触はなかった。
オカルトに関するいくつかの戦後の作家が仏教とシャンバラの伝説は、ドイツとチベットが公式に接触したことが大きな役割を果たしたと主張している。これを検証してみよう。