もうひとつのチベット現代史
昨日の夕方、もう何時かも忘れてしまったが、起きてから、「中国 歴史偽造帝国」を読んでたのだが、ベッドの中で布団にくるまって読んでいたので、眠くなって寝てしまったり、また起きて続きを読んだりしていたら、読み終わったのが朝の6時半になってしまった。書きたいことは分かりすぎるほど分かっていても、翻訳がわかりづらい本である。次に読まないといけなくぃのは阿部治平の「もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯」であるが、その前にちょっとブレイク。断酒11日目。
とりあえずオフラ・ハザの「Shaday」を聴きながらコーヒーを飲む。は、オフラ・ハザは、イスラエル出身の女性歌手で、伝統的な要素をミックスした曲調と歌声で、世界的な人気を得た。テルアビブにて、貧しいイエメン系難民家族の9人兄弟の末娘として生まれ、プロのシンガーだった母からイエメンのフォークソングを学ぶ。このことが、後に欧米で賞賛を浴びることになるイエメン・ソング誕生のルーツとなっている。「Shaday」からシングルリリースされた「Im nin' alu」は、ヒップホップ・アーティスト、エリックB.&ラキムの「Paid In Full-The Coldcut Remix」やM/A/R/R/Sの「Pump Up The Volume 」にサンプリング・ソースとして使用されクラブシーンに浸透し、これを機に「Im nin' alu」がシングルカットされ、1988年4月に全英チャート15位を記録。1992年にリリースしたアルバム「Kirya」にはイギー・ポップ、ルー・リードが参加している。アラビア語で歌っている楽曲も存在し、その影響からかアラブ圏でも大きな人気を得ていた。2000年2月23日にエイズによる合併症のため逝去。
「もうひとつのチベット現代史」は東チベットのバタン出身で、解放と言う名の中国人民解放軍によるチベット侵略に抵抗し、チベット共産党の結党して大チベット構想を打ち立てた革命家のプンツォク・ワンギャル(通称、平汪(プンワン))の生涯を描いている。
長征している時にチベット東部(カム地方)を通過した中国共産党の影響を受け「東チベット自治同盟」を結成、雲南との国境地帯で中華民国の支配に対する武装蜂起を起こした後、中国支配に抵抗した英雄として、チベット貴族支配下にあるラサで公然と反体制的な活動を行う。この時すでに中国共産党員であり、民族派的マルキストだったという。
日本では、チベットに滞在した日本人、木村肥佐生の著書「チベット潜行十年」に登場することで知られ、木村とは親しく交流していたようである。木村は明治維新を革命モデルとしてチベットに適用するアイディアを彼に提案し、彼は明治憲法をモデルにチベットの新憲法の草案を練っていたという。1949年、保守派貴族によってインドへ追放される。帰国後、中国共産党の下部機関に組み込まれるが、文化大革命では民族主義者として弾圧を受け、18年間投獄される。文化大革命の終焉とともに政治の表舞台へ復帰し、全国人民代表大会常務委員、中央民族委員会副主任などのポストを歴任する。
結果から見れば彼はチベット共産化を手助けした人物ということになるが、彼が求めていたのはチベット政治の革新であり、中国化の推進が目的ではなかったことは、明らかである。また、カム地方がチベット政府の圧政に苦しんでいたことも、彼の思想・行動と無縁ではなかったと思われる。なお、現在の彼の主張は、中国からの独立ではなく高度な地方自治を求めるものである。この考え方はダライ・ラマ14世の中道のアプローチに通じるものだ。
同じ時期に活躍した人として20世紀チベットの奇僧と呼ばれたゲンドゥン・チュンペルがいる。日本では、「カーマスートラ」に代表されるインドの古典性愛文学に興味をそそられて、それら古典を縦横に引用するとともに、自分の体験を加えて彼のオリジナルな性愛論を書いた「チベット愛の書」の著者として知られている。チベット仏教ニンマ派の高僧の化身として認定されながら、ゲルク派の甘粛省夏河県にあるラブラン僧院、ラサのデプン僧院に学んだ。寺院修行中には非常な秀才として認められたが、高僧の著作をあっさり批判して、他の僧侶から袋叩きにされたこともある人物である。
チベットでの仏教修行に満足できなかったのか、それとも外の世界を見たかったのか、インドやネパール、スリランカにでかけ、サンスクリット語やパーリ語、英語をものした。12年間の外国滞在中にチベット語仏典を英訳したり、敦煌文書のチベット年代記の現代語訳に取組んだり、「バガヴァッド・ギーター」や「ラーマーヤナ」、「シャクンタラー」などのチベット語への翻訳をやるなど学術的な活動を行った。
チベットへ帰国して、1946年政府からチベット史「白冊」の執筆を依頼されたが突然逮捕され、一時釈放されたが1950年まで獄中生活を強いられた。ダライ・ラマ14世の親政開始とともに釈放されたものの、1951年中国人民解放軍のチベット進駐後、死亡した。獄中の虐待もあったろうが、直接にはアルコール中毒が死因となった。ゲンドゥン・チュンペルが投獄されている時に、当時交流があった木村肥佐生がその消息を訪ねているのが「チベット潜行十年」の中で書かれている。