アシッドハウス
続いてアシッドハウスである。
元々の発生は、1987年、シカゴでDJ ピエールが「Acid Trax」を製作した時、古いアナログシンセサイザー「ローランド・TB-303」のツマミをランダムに動かすことによって偶然生み出されたサウンドが、あたかもアシッドすなわちLSDの幻覚作用を思わせる幻想的なサウンドであったために、この名前がついたといわれている。ローランド・TB-303を用いた曲は、古くはアレクサンダー・ロボトニクの「Problems D'Amour」があるが。そのフィルターをいじることで出される独特で奇妙な音色と内蔵シーケンスのグルーヴが再評価され、多くのアーティストが使い出したことから一躍脚光を浴びるシンセサイザーとなる。 そもそもの発端はシカゴのハウスクリエイターDJ Pierreが楽曲製作の際にベース音源として中古の303を入手したところから始まる。だが、そのとき偶然フィルターの設定が全開になっていた事から、彼はこの奇妙なサウンドの独特の魅力に気づき、それを最大限に生かす方向で曲を製作した。ハウスミュージックの新しいサブジャンル、「アシッドハウス」の発展を担った。DJ ピエールは、1985年から1990年まで「Phuture(フューチャー)」のメンバーとして活動し、1987年に歴史上初めてのアシッドハウス作品となる「Acid Tracks」をリリースし、アシッドハウスの形成においてDJ ピエールの存在は不可欠だった。プロデューサーとしての資質も素晴らしく、ソロ活動では、Wild Pitchスタイルという制作スタイルも生み出した。「ただプロデュースをするためのプロデューサーではない」と評価され、オリジナリティーに溢れる作品になぞらえて、プロデュースの魔法使いと呼ばれたこともあった。
Phutureのトラック「Your Only Friend」では反薬物のメッセージを歌っていたり、メッセージ性の多い楽曲も多く、DJ Pierreは、あくまでも音楽が持つ力やあるべき姿にこだわり続ける、本当のアーティストです。自分自身の音楽についても、万人向けではなく、本当に自分の音楽を必要とする人のために作っているのだと言っている。
DJピエールは90年代になると、シカゴを去り、拠点をニューヨークに移します。そしてハウスミュージック専門のレーベル「Strictly Rhythm」に所属し、A&Rを務め多くのアーティストをサポートしてきた。現在では必ずしもアシッドサウンド=TB-303を使用した楽曲だけに留まらず(もちろん狭義ではそれこそを「アシッドハウス」と呼ぶが)、アナログシンセのフィルターやミキサーのEQなどを用いて音色変化のスウィープ感を強調した音楽全般へと拡大を見せている。ダフト・パンクの登場以降にシーンを席巻したフィルターハウスと呼ばれるジャンルなどがその筆頭である。
このムーヴメントはやがて、スペインのイビサ島やロンドンにおけるクラブ・シーンを経て、1988年〜1991年にかけてイギリス北部でセカンド・サマー・オブ・ラヴと名づけられたドラッグとアシッドハウスが結びついたムーヴメントが発生する。その際シカゴ産のアシッドハウスの流行とともにデトロイトテクノも渾然一体となりイギリスへと流れ込み、ムーヴメントの初期から使われていた。この流れはイギリスからヨーロッパ全土へと徐々に拡大して行き、激しいスタイルを持った4つ打ちの音楽はそれぞれの地において地元の文化と融合し(ハードコア、ジャーマン・トランス、ガバ)、またはトランスなどの新たな音楽も生まれた。少しずれるがイギリスでは1990年代に入ると大規模なレイヴの頻発とその要望により、主に大げさな音色と速めのブレイクビーツを使った音楽も生まれている。現在見られるようなレイヴが生まれたのは、1980年代後半の英国である。それまで若年層の夜間の娯楽は屋内を舞台とすることが多かったが、アシッドハウスやテクノという当時の最新音楽の流入と、エクスタシーなどの多幸系ドラッグの流行により、大きくその志向が変化した。レイヴの原型は、当時の若者たちがそれまでのナイトクラブやディスコになかったまったく新しいパーティー経験と音楽を求め、ウェアハウス(倉庫)や郊外の廃屋や農場などを利用してフリー(無料)・パーティーを自らの手で開いたものである。こうしたレイヴの開催や集客は既存メディアや音楽業界に頼らず口コミだけで行われたが、やがて毎週末には辺鄙な場所にあるレイヴ会場にレイヴァー(レイバー)と呼ばれる参加者たちが集まるようになってくる。レイヴは、それまでに無かった音楽性やそのフリー・パーティーの享楽性と連帯感などにより多くの若者を惹きつけ、巨大なムーブメントへと爆発的に成長した。この動きはしばらく遅れて世界各国に波及する。こうして1990年代初期にはテクノはヨーロッパで刺激的な音を持つ先鋭的なダンスミュージックというイメージとともに定着していった。テクノはこの様な発展の経緯により、発祥の国アメリカではアンダーグラウンドな音楽のままにおかれ、むしろヨーロッパの国々に広く親しまれているといった状況にある。1993年には世界的なアシッドハウスリバイバルが起こり、その人気を不動の物とした。近年ではさらにアシッドハウスリバイバルのリバイバルといった現象まで起こった。
特筆すべきなのは、イギリスのインダストリアル・ミュージックのバンドPsychic TVがアメリカで流行っていたハウスミュージックからの影響を受け、その後、世界的に知られるようになったアシッドハウスのアーティストのうちでも、もっとも過激な存在として活動を続けたことである。私がハウスにはまりだしたのはちょうどこの頃からである。当時、東京の美大の学生だった頃や、や川崎の会社に勤めていた頃、毎週末、渋谷の「CAVE」や六本木の「RAZZLE DAZZLE」でこうしたアシッドハウスやそこから派生したハードテクノで朝まで踊り狂っていた。私がオリジナル・ハウスやガラージに惹かれていくのは90年代半ば以降である。
また、1980年代後半にベルギーなどから登場したニュービートや、エレクトロニック・ボディ・ミュージックと呼ばれるベルギーで生まれたテクノの一種で、エレクトロなニューウェーブと、ジャーマン・ニューウェーブ(ドイチェ・ノイエ・ヴェレ)のハンマー・ビート、また、他のインダストリアル・サウンドに影響を受けて誕生した音楽で、ロック的ともいえるハードな打ち込みビートと、硬質なシンセ・ベース、ダミ声のヴォーカルを特徴とする音楽、また、その強烈なビートが肉体的であることからこのジャンル名が付き、その後よりテクノ色を増し、その後のテクノ/ハウスやインダストリアルにも強い影響を与えた音楽が、アシッドハウスと融合してトランスが登場する。当初、ベルギーの隣国であるドイツのフランクフルトでトランスは開花した。フランクフルトを中心に盛んだったトランスはジャーマン・トランスと呼ばれ、1990年代初頭には新しいダンスミュージックのジャンルとして成長を遂げた。しかし、1990年代中後期にはジャーマン・トランスのブームは下降してくる。そして、この頃からトランスは大きく2つの方向へと枝分かれし、異なる音楽性を持って発展していくこととなる。ダンスミュージックとしてのトランスは、1980年代中期にアシッドハウスから派生した。ハウスから派生したのかテクノから派生したのかは難しいところであるが、テクノ組のトランス参入は中期以降である。現在のトランスミュージックは主に西ヨーロッパ圏を中心に流行しているトランスと、世界規模で流行しているサイケデリックトランスがあり、これらは互いに影響を与えあいながらも異なった変化を遂げてきた。ドイツのフランクフルトで誕生したトランスは隣国ベルギーのニュービートなどから強く影響を受け、リズミカルなドラムパターンや叙情的なメロディを持っており、現在のトランスミュージックの基礎を作った。また1990年代初頭からインド西海岸のゴア地方に持ち込まれたドイツ、ベルギーを初めとするハードコアテクノやジャーマン・トランスなどが、1993年から1994年頃ゴアトランスに発展した。
こうした新しいテクノミュージックの影響は日本にも飛び火したが、日本ではアンダーグラウンドなダンスミュージックという文脈ではなく、90年代初頭、バブル末期の日本に咲いたあだ花のような音楽で、ボディコンやお立ち台といったアイコンと共に語られるバブル期の巨大ディスコ「ジュリアナ東京」でプレイされるジュリアナテクノという形で輸入される。勿論、アンダーグラウンドなアフターアワーズパーティーを行うクラブでもプレイされたが、この手のハードコアテクノといえば「ジュリアナ東京」を連想させることになる。