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搾取の文法~貴方、それ、搾取されてない?~


搾取という言葉に君はどんなイメージを抱くだろうか。

僕はその言葉に不公平と卑怯を感知するし、好きか嫌いかといえば嫌いと答える。その根底には自分自身が搾取される側になっている状態を連想する嫌悪感や、その搾取されている自身の弱さそのものを直視させられる嫌悪感があるのは間違いない。


世の中には搾取の文法が溢れすぎている。


特に顕著なのは、情報商材のそれであり、彼らは搾取の自転車操業で精神を疲弊している自分を認知しながら、それでもそれをやめると生きていけない自分を誰よりも自覚しているが故に、「金を持っているのに、余裕のない顔」という奇妙に矛盾した表情を良くしている。


彼らの周りに羽虫のように飛ぶ、インスタグラマーや反社会勢力なんかも似たようなものだ。誰も彼も、金を持ちながら負けている目をしている。気付く力がある奴ほどそうだ。

何もわかっていないバカだけがハッピーな顔をしている。そして、そんなバカは自身の金の遷移にももちろん気付くはずもなく、自身の容色が価値を失い、そして言うのだ。


「こんなはずじゃなかった」


この世は所詮、弱肉強食。
弱ければ死に、強ければ生きる。


といったのは志々雄真実だけど、実際の世の中は弱くてものうのうと上に立って生きている人もいるし、強くてもこき使われる人も山ほどいる。

結局強さなんて、状態のグラデーションでしかなくて、強く見える人も弱い時があるし、逆もまた然り。群盲の話を持ち出すまでもない。人の強さは不確かだ。


浮世は憂世。本当に、ネガティブな目線で世相を見れば、何が楽しくて生きているのかわからないのがこの世の中だ。

正解の見えない状態、徒労に終わる努力、成果の出ない日々。
自分自身にダイレクトに反映される日々のリアルが我々の心を緩やかに蝕む。

SNSを見れば煌めく日々を送る今をときめく人々、画面の向こう側の虚飾と、こちら側のどうしようもない現実。狭い箱のような部屋は僕らの精神を圧迫する。世界はあんなに輝いて広いのに、僕らの現実はどうしようもなく窮屈だ。

今の世の不幸を一つ上げるなら、
「誰もが不幸で、誰もが誰かを羨んでいるということ」だろう。
自己承認のために切り取られた輝く一瞬、その集合体がひとつの凶暴な生物となって僕らの心を殺しに来る。ダイレクトに。だが、見えない形で。そしてそれすら僕らはわかっているのに、離れられないのだ。悲しい話だ。

幸せなはずのディストピア。
僕らはジョージ・オーウェルの予期した世界にいる。
もう少しマイルドに、そして、救いがない形で。


僕らは等しく苦しんでいる。


時を戻そう。


搾取というのは、正当な対価を用意せずに、利益をかすめとる行為だ。
故に、搾取しているサイドはいつだって、美辞麗句を並べる。自身が正当な対価を与えていないことを知っているからだ。形の残らない、証跡のないふんわりした言葉たち。

やる気、愛、必要とされる実感、夢。そういった、よくある、だがしかし、欲しいと思わされてしまう言葉たち。

思わされてしまうのは仕方がないのだ。僕らはそういう教育を受けて育ってしまっている。
現実を見て、適切な行動をとるという生物として基本的な在り方は、学校教育によって徹底的にオミットされていく。


社会を統治する側からすると統治システムに対して疑義を持った途端に改善行動に移行する個体が大量生産されるのは恐怖でしかない。安定に必要なのは均一な方向性を持った駒だ。


事実、日本人全体が均一化に成功していた時期は国家としても強かった。戦争前夜、高度経済成長期。主導者の質が良い状態の日本人は強かった。
多様性という魔法の言葉で、僕らは生きやすくなり、そして国は弱くなった。悲しい現実だ。


多様性という言葉が教育にもたらしたもの。
それが「ありのままの自分」という概念だ。

誰もがありのままの自分で生きていけるのであれば、社会はとっくにそうなっているはずで、でもそうじゃない。社会は相変わらず均一な歯車を求めている。
社会だけじゃない。僕らだってそうだ。求めているだろう、均一さを。

袋ごとに味の濃さも、量も変わるポテトチップスが欲しいだろうか。
同じSサイズの表記なのに、ジャストフィットなものもあれば、明らかにぶかぶかなものもある服が売り場に並んでいたらどうだろう。

そんなものだ。
僕らは均一であることを求めている。そして社会も僕らに均一さを求めている。
ここは認めなければいけない。
ここを受け入れて、社会が求める教育を受け、一定の水準をクリアしたと見なされるのが成人の儀だったわけだ。

「教育は社会に均一性をもたらすために行われる」。

故に、高品質な均一性がもたらされる教育だったら何も問題はない。
現在の教育はそうとは言い難い。このあたりに陰謀論を見出す人もいるが、僕は興味はないので、割愛する。


さて、間違った教育を受けてしまった僕らがどうすれば良いのかは以前にこういう記事を書いたので、興味があればこちらを見てもらえたら幸いだ。




要約)間違った教育受けちゃったときはこういう手法で自分を再教育しような!という内容。


再び搾取の話に戻ろう。

搾取を成功させる技術。それを僕は搾取の文法と呼ぶ。
搾取の文法とは教育成果に対するハッキング技術みたいなものだ。


搾取という行為を成立させるためには

【正当な対価を用意しない】

という部分が欠かせない。

搾取の文法を考える際には、いかに価値がないもの(準備するのに労力がいらないもの)を価値があるかのように見せかけるか、というのが不可欠なのだ。

僕らは多様性という錦の旗のもとに、

「ありのままの自分を許してもらえる環境を探すことを至上とするように教育された」

教育されたというべきか、扇動されたというべきか議論の余地はあるけれど、事実として現在の僕らはこの環境を探そうとして四苦八苦してしまっている。

搾取の文法はここに付け込んでくる。


搾取の文法の傾向を分析すると

・ありのままのお前を認めてやるのは俺しかいないから俺の言うことを聞くのが当然である

・お前は本当にバカで無価値だから再教育してやろう、俺の言うことを聞くのだ


この2つでしかない。


実は許しと教育はコストがゼロだ。
そのくせ、得られるのにコストがかかりそうなものとして認知されている。
まさに、搾取の文法に必要な要素を満たしている。


教育は確かに「本当に役立つものであれば」コストを払って受けるべきではあるが、何の役にも立たない教育は害悪でしかない。(これは身をもって経験しているはずだ)

許しに至っては口先だけでどうとでもなる。
真の許しとは、責任まで担保するという話なのだが、搾取をしてくる連中がそんなことをしてくれるわけがないのは自明の理だ。


正しい許しを得る難しさを知っている人ほど、許すという言葉に弱い。
直接的な表現で「許すよ」と言われずとも、「ここでなら何しても良いよ」とか「僕にはそのままの自分を見せても大丈夫だよ」という表現で、痛い目を見た人は山ほどいるだろう。


恋愛行為における搾取の文法を用いる連中を個人的に許しがたいのはこのあたりにある。彼らは本当の許しを与える言葉のミームを汚染しているのだ。

言葉を信じられなくなると、人は、弱くなる。人を弱くする行為が僕は嫌いだ。

一度、意識して広告メッセージや、世にあふれる言葉を眺めてみてほしい。

世の中には搾取の文法から導き出された言葉が本当にあふれている。
僕はこの記事で一人でも、搾取の文法の使い手によって不幸になる人が減れば良いと思っている。

だがしかし、身も蓋もないこと言うと。


ここまで読み込めないタイプの人が搾取されるんだよな!!!!!!


身を守るために必要な搾取の文法のメカニズムについては無料で公開するので、ここまで。
ここまでで正直、結構いい記事だと思うんだよ、自画自賛だけど。
どうか、ほら、この記事を引用RTして感想つけてつぶやいてほしい。

真面目な話、君が感想をつぶやいてくれることで、この搾取の文法のメカニズムを最低限理解して、身を守れる人が増えるかもしれない。
君のフォロワーの中には、きっと誰かにとって大事な人がいて、その人を守れたら。それは結構ハッピーなことでしょ。

というわけで、宣伝のほど、よろしくお願いいたします。

以下、それでもさ!搾取するのも時にはありだよな!派の悪い人のために、搾取の文法を成功させるための技術論や用法用例をまとめていく。

さて、ここを読んでいる君はアレだな。
暗黒面にようこそ。

わざと小難しい感じに書き上げた前半戦を乗り越えてきたのだから、よほどこれらの技術を必要としているのだろうと思う。

任せてほしい。決して安くない金額の記事だから、技術論、用法についても解説させてもらうし、前半戦よりも格段に読みやすく、理解しやすいようにしていく。


始めよう。



復習になるが、搾取の文法において必要になるのは


「価値がないものを価値があるように見せかける」


だったね。


改めて考えてほしいのだけど、具体的にどういう言葉をチョイスすれば、価値があるように見せかけることができるだろう。良い言葉浮かぶかい?

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僕は肉が好きです。ステーキ食いたい。