輪講のはなし
こんにちは。Pelikanです。
今日は大学の研究室でやった輪講ついて書きます。
大学4回生になると研究室に配属されてそこで卒業研究をするのですが、その研究分野の基礎を学ぶ目的で輪講形式で本を読みます。講師は4回生の学生が務めて、大学院生の先輩たちと教員スタッフの方がその講義を聞いて、内容の確認や質問をします。聞いてる側の方が学力は上なので、内容がわからなくて聞いてるのではなくて、4回生の理解を確認するために質問をします。
僕はHirschの「力学系入門-微分方程式からカオスまで-」という本を読んだのですが、線形代数や微分方程式の基礎の話もあるので、研究だけでなく大学院の入試対策にもなってなかなか良かったです。特に自分の講師の当番の前には時間をかけて読んで、ちゃんと理解した上で輪講に臨んでました。
ところが、真面目に勉強してたものの本番ではなかなかうまくいきませんでした。待っていたのは質問の嵐。勉強したつもりがほとんど答えられず、数時間講義をやって3ページも進みませんでした。答えられなければ宿題になるので、次回までに調べたり勉強したりしなければならず、図書館にこもることになります。そんなことが続いて当時は輪講は憂鬱な時間でしたが、訓練してもらったおかげで基礎的な学力はずいぶん身についたように思います。
でも実は、輪講での一番の収穫は勉強した内容というより「”わかった”という感覚はとても個人差のある感覚なのだ」ということに気づいたことです。予習のときに僕は確かに”わかった”と感じてから講義に臨んでいるのに、先輩や先生の質問に答えられず、自分の理解の論理的不備や、用語の理解不足などに気づかされます。自分の”わかった”という感覚の精度のなさと、自分より頭のいい人がどのくらい丁寧に論理を積重ねて結論にたどり着いた時に”わかった”と判断しているかを知ることができました。
この輪講を通じて徐々に自分の”わかった”と感じる感覚を矯正してもらえたことがその後の人生にとって大きなことでした。社会人になって興味のあることを勉強するとなれば本で独学することが多くなりますが、学校と違って自分の理解を外から確認してくれる先生はいなくなります。自分で読んだ部分を正確に理解できたかどうか、その自己判断の積重ねが勉強の成果を決めます。もし理解が曖昧でもなんとなくわかった気になるようでは、いくら勉強に時間を割いても身につくことは少なくなってしまいます。そしてどんなに勉強にモチベーションがある人でも、自分が理解したと思った箇所を勉強し直すことはないので、取り返しがつかないことになってしまいます。なので僕は勉強中に自分がわかったと判断することにとても慎重です。
僕より頭が良く、僕より早く正確にものを理解していける人はたくさんいます。でも自分が理解できてるか、理解できていないか、その判断さえ正確であれば時間さえかければ彼らに追いつくことができます。この判断の精度を上げるために、学生の間に輪講のような自分の理解を他人にさらけ出す経験をすることがとても大事だと思っています。研究室、ゼミ、勉強会、どこでもいいですが自分より頭のいい人に自分の理解を聞いてもらえるならその機会を大切にすることをおすすめします。
さて、このはなしはここまでにしたいと思います。今回も読んでくださった方々、ありがとうございました。また次の話題でお会いできたら嬉しいです。