【紫陽花と太陽・上】第六話 わすれもの
「おはよう」
下駄箱にあずさがいたので、俺は遼介にならって挨拶をしてみた。
あずさが振り向いた。少し困った表情をしていた。
「なんか、探し物か?」
「……お、おはよう。ちょっと、上履きがなくて……」
初めて返事が来たことに驚き、上履きがないということにも驚いた。あずさは遼介と違って忘れ物はしそうにない。
あずさは早々に諦めて来客用棚からスリッパを出して履いた。普通ならパタンパタンと音が出るはずの足音を、彼女は出すことなく静かに歩いた。
「この間は、応援ありがとうな」
「……ああ、最後の試合は残念だったな」
「別に。気にしてない。力不足だっただけだし」
沈黙ができた。
「遼介からさ、あの後具合悪くなったって聞いたから、気になってた」
「……そうか」
遼介と椿ちゃんに助けてもらったんだと、あずさは小さく呟いた。とても悲しそうな表情だった。
剣道部は市中総体も終わり試験勉強のために活動が少なくなっている。
夏休みの前に試験があるのは多くの学生にとってけっこうな重荷だ。遼介は試験のたびにいつもヒィヒィ言っている。苦手な科目が多すぎるのだ。だが最近は奴と一緒の時間が取れるので、放課後の教室で宿題や試験勉強をしている。
春頃と比べると、あずさは遼介とけっこう話すようになってきたように見えた。今日も俺に返事をしてくれたほどだし、少しずつだが慣れてきたのかもしれない。
「あずささんっ、おはよう!」
体調はどう? 剣道の試合の日から遼介はよくあずさに元気かどうか聞いている。
あずさはというと、最近よく何かを探しているそぶりが多くなった。
◇
いじめをしているつもりは毛頭ない。
私は、翠我くんを目で追っている自分が、まだ彼のことを好きであると認識した。
女の子は恋をすると変わる……誰が言っていたかは忘れたが、身なりに気を使うようになり、言葉も気を付けるようになった。最近の私は肩のあたりでゆるくふわっとさせた髪型にしている。パーマや髪染めは校則違反となるが、コテを使うくらいならいいだろう。
最初にやってみたのはチョークだった。あの女の机の中に砕いたチョークを忍ばせた。
彼女がどういう反応をしたのかは分からない。クラスが違うからだ。でも満足した。
次に困った顔を見たくて下駄箱に泥を入れてみた。これなら玄関からでも顔を見ることができるからだ。予想通り彼女は驚いて一旦その場から去った後、どこからか雑巾を持ってきて靴と箱内をぬぐい、雑巾を戻しに行き、履いて帰った。下駄箱の中は元どおりに片付けられていた。
そして今朝は上履きを隠した。
私は自分のしていることを正しいと思っていた。ずっと彼を想ってきたのは自分だし、自分と比べて彼女は笑顔がなく無愛想だ。そんな面白みもなんにも持たない女が好きな男のそばにいるのは、私には耐えられなかった。
(いつか、あの女と話をしてみよう)
高々と、彼の家族のことを教えてやってもいい(家のことや妹の世話で恋愛する時間なんてないのだということとか)、それか、彼女の身の回りの出来事に同情して、友達のふりをしてやってもいい。
私はそっと微笑んで、彼女の下駄箱から靴を取った。
彼女の外靴は雨続きの日にもかかわらず泥はねがなかった。手入れが行き届いているそれを、私は迷わず玄関口のゴミ箱に投げ入れた。
◇
「教科書、あるー! ワークブック、あるー!」
剛が苦笑いをしている隣で、僕は言葉に出して鞄の中をチェックした。
期末試験が近づいている今、忘れ物をしている余裕は僕にはない。
「わすれもの、なーし! さっ、かーえろっ」
ガタガタとイスと机を元に戻し僕らは教室を出た。教室にはまだ数人クラスメイトがいたので、また明日ねーと手を振って玄関に降りていった。
玄関で靴を履き替え、唯一開いている一番端のガラス扉——防犯上の関係で、放課後はほとんどの扉が施錠されているのだ——から帰ろうとした時、僕はゴミ箱に靴が捨てられているのに気が付いた。ローファーといわれるやつで女の子がよく履いてる靴だ。新品みたいにきれいだったので違和感を感じた。
「あれっ? ピカピカなのに、捨ててある」
「ん? ああ、本当だな。忘れ物か?」
剛は首を傾げながら、捨てるわけないよなと言いつつ靴を拾った。
中敷に『霞崎あずさ』と名前が書いてあった。
僕たちは沈黙した。僕は、なんで? と頭にクエスチョンマークが浮かび、剛は顔色を変えた。何か知っているような表情だった。
「剛、どうしたの? 何か知ってるの?」
「……知らねぇ」
「この靴、あずささんのだね」
「そうだな」
「今日はまだ学校にいるのかな? でもなんでゴミ箱にあったんだろう?」
僕はすぐ下駄箱に引き返し、あずささんのロッカーを開けてみた。
空っぽだった。上靴もなかった。
「???」
ますます僕はよく分からなくなってしまった。何も入っていない。どういうことだろう?
「なんか、空っぽだった……」
僕は困った顔で剛を見た。
「今朝は上靴がなかったって言ってたな」
「えっ? 上靴もないの? 忘れ……」
忘れてきたのかと言いかけて、やめた。あずささんは僕じゃないから忘れそうにない。
そして今日はあずささんがスリッパを履いていたのを思い出した。足音がしなかったので気が付かなかったのだ。
「……僕、家に持って行ってあげようかな」
ちらりと剛が僕を見たので、この前の剣道の試合観戦の日タクシーで送って行ったから家は知っているんだと答え、僕はこの新品みたいな靴を届けることにした。
だって外靴がないと明日も困るはずだ。
剛とは大きな木のある公園で別れた。
剛も一緒に届けたいが、今日は予定があるのでこれ以上帰宅時間を遅くすることはできなかった。だからこそ試験勉強も早めに切り上げてきたのだ。
右肩に重いカバンを背負い、左手にあずささんの靴をぶら下げて歩く。暑かった。梅雨も終わりかけて(もう終わった?)夕方も気温が高くなってきた。
「たしか……ここを曲がったような……」
僕は運動オンチに加えて方向オンチでもあるので道もよく間違う。大抵は剛にくっついているので大丈夫なのだが、一人になるととたんに迷う。
うろうろと悩みながらそれでもなんとかあずささんの家に着いた。そうそう、こんな大きな家だったなと思う。黒くて四角くて、ずどーんとそびえ立っている、昔はなかった高級マンションだった。
あずささんは家にいた。
僕が入り口のロビー(マンションだとあずささんの部屋に行く前にも一度チャイムを押さないといけないみたいで驚いた)にあったインターフォンでチャイムを鳴らすと、はい、と固い声がして、名前を告げるとひどく慌てた彼女の声がした。
どうして僕がいるのか、本当に入り口にいるのか、自分が下に降りるなど押し問答をしてしまった。
「今すぐ下に行くから」
「え? ……でも靴を渡すだけだし、僕が玄関まで持って行くよ?」
「だ、だけど……そっちに行くのだって時間はかからないし……」
「そうだけど、鍵を閉めたり靴を履いたりするでしょ? 僕がそっち行く方が早いと思うんだけどな……」
あずささんはかなりうろたえていた。こんな声は聞いたことがない。
結局僕が玄関前まで持って行くことになり、ロビーの扉が開いた。
「はい、これ」
僕があずささんの靴を渡すと、彼女は神妙な面持ちでそれを受け取った。
「……ありがとう」
黙って帰るべきだったのかもしれない。でもこの時僕はあずささんに聞いてしまった。
「……ゴミ箱にあったけど、いらなかったのかな?」
「ゴミ箱?」
あずささんが目を見開いて僕を見た。
「うん、学校の玄関のね。ゴミ箱の中にその靴があった」
あずささんは渡した靴をそっと撫でた。自分で捨てたわけではないことが分かった。すごく悲しそうな顔をしていたので、僕は言わなきゃよかったと後悔した。
「ごめん」
上靴のことも聞きたかったけど、聞けなかった。自分で捨てたりなくしたりしていないのなら誰かに勝手にされたのかもしれなかった。それは僕の人生の中で未経験のことだった。何が起こっているのか、どうしたらいいのかも、分からなかった。
「……持ってきてくれてありがとう。助かった」
そっとあずささんを見るとまっすぐ僕を見ていた。
少なくとも、僕が靴を渡したことをあずささんは助かったと言ってくれた。
「うん、それじゃあ、また明日ね」
不思議なもので、靴を受け取ってもらえたことで気持ちも軽くなり、とりあえず帰ることにした。——そして、玄関の扉を開けようとし——
扉が、勢いよく開いた。
◇
兄がここ数日不機嫌なことに気が付いた時には、もう既に遅すぎた。
いったいどこから歯車が狂ってしまったのだろう?
私は今、遼介と走っていた。手を繋いで。全速力で。
心臓がドクンドクンと重い音を立てている。手が震え、足も震え、夕方にも関わらず日差しが強く暑い日だというのに指先はとても冷たくなっている。
足がもつれ私は転倒した。
とっさに手はついたものの、したたかに膝を打ち付け、思わず声をあげてしまった。
「あっ……大丈夫っ⁉」
遼介が振り向いて助け起こそうとしてくれた。だが、私の足は思うように動いてはくれない。喉の奥でヒューヒューと空虚な音がしている。声を出したいが、何も出ない。
遼介は黙って私の背中をさすってくれた。
だいぶたって呼吸が落ち着き、やっと顔を上げた。
遼介が目から大粒の涙を流しながら私を見ていたので驚いた。
「ごめん、ごめんね」
何度も何度も、遼介が謝った。
私も遼介も途方に暮れていた。
この小さな街で、たった二人で、途方に暮れていた。
◇
あずささんの家に忘れ物を届け、帰ろうとしてドアノブに手をかけたのと同時に扉が開いたので、僕は一瞬どうなったのか把握するのに時間がかかった。
扉を開けたのは見知らぬ人で——とても、かなり、めちゃくちゃ怒っている顔をしていたので、挨拶すら忘れていた——髪の長いすごく背の高い男の人だった。その人はジロリと僕を見た後、誰だ、とだけ言った。
「……同じクラスの」
呆然としていた僕より先にあずささんが説明しようと口を開き、いや、開きかけた時にはあずささんは男の人に胸ぐらを掴まれていた。
そこからは自分でも何が起こったのかあまりよく覚えていない。
あずささんは男の人に胸だか首あたりを掴まれ(どうしてそんなことをするのかまるで分からないのだけど)壁に叩きつけられてしまった。ものすごい音がした。一瞬だった。
男の人は怒鳴った。
「家に男を連れ込むなど、誰が許可したんだッ‼︎」
あずささんが床に崩れ落ちた。思わず、僕は男の人をポカポカと叩いていた。
「やめてよッ‼ 痛いことしないでッ‼」
「うるさいッ‼」
あずささんがゲホゴホと咳き込む中、僕は男の人を止めようとして、でも身長が全然違うのであっさりと玄関から廊下に放り出されてしまった。転がった拍子に廊下の壁に頭が当たり、くらくらしてなかなか起き上がれなかった。
(……! ……‼)
何か怒鳴り声が聞こえてくる。
息を整え耳をすますと、どうやら僕を自宅に入らせたことに怒っているようだった。あずささんの声は聞こえない。僕はさっき自分を睨んでいた目を思い出し、未だかつてそんな目で見られたことはないほど冷たく、恐ろしい目をしていたと感じた。カチカチと音がするので何かと思ったら、どうやらそれは自分の歯の音のようだった。僕にとって相当な恐怖だったのだ。
(とにかく、このまま帰るわけにはいかない)
もう一度扉を開けると、あずささんは床に丸まっていた。隣で男の人が怒鳴っていた。髪の毛を掴まれたままだ。表情は髪の毛で隠れて見えない。
「まだいたのか。そして、またこの家に来るのか」
男が冷たい視線と怒りを抑えた声のまま、ゆっくりと僕に近づいてきた。手が、あずささんの髪から離れた。
「あずささんッ、行くよッ‼︎」
自分でもどうしたいか分からなかったけれど、とにかくこの家にこのまま居てはいけないと思い、あずささんの手を引っ張って家を出た。
走った。
息はとうに切れて苦しかったのだけれど後ろが怖くてひたすら走った。
あずささんが今どんな表情をしているのかも、やっぱり怖くて見れなかった。
何もできない自分が悲しくて、視界が滲んだ。
◇
「……大丈夫か? どうして、遼介が泣いているんだ?」
落ち着いてあたりを見渡してみると、私と遼介は学校を通り越して反対側の川辺近くまで来ていた。とにかく必死に走ってきたので、どうやってここまで来たのかまったく覚えていなかった。
遼介はポロポロと涙を落とし私を見つめていた。
髪の毛を引っ張られたので頭は痛かったし、壁に当たった背中も痛い。でも、さっき背中を遼介がさすってくれたおかげで気持ちが楽になっていた。息もできる。
両手をにぎって開いてを繰り返し、しびれがないことを確認した。
(そういえば……)
先ほど遼介も兄に投げ飛ばされたような音がしたので気になった。
兄が激昂するのはいずれ来る出来事だった。今日でなければ明日かもしれない。
私にとってはいつものことだ。
だが——……。
「遼介……怖い思いをさせてしまって申し訳ない……。痛いところはないか?」
「……えぇ?」
遼介がキョトンとする。
どこから話したらいいのだろうか。私は口ごもった。
「先ほどの……私を怒った人は、私の兄だ」
「……お、お兄さん?」
「あぁ、よく怒るんだ。いつものことなんだ」
「……いつものこと……」
状況がよく飲み込めていない表情をしている。それもそうだ。おそらく、私と兄の関係は普通の人と異なっているのだろう。兄の秘書である百合さんも私に忠告してくれていた。
『鋭司さんは怒りすぎる性質かと思いますので、くれぐれも無理しないでくださいね』と。
父親は兄ほど激しく怒ることはなかったはずだ。怒る時は決まって、無視をするか黙り込むか、静かに理由を問いただすだけだった。……覚えている限りでは。
小さい頃の記憶は曖昧だ。
いつの間にか兄は家にいて、ずっと茶道を指導されていたはずの私は、いつからか使用人の部屋で生活するよう命じられていた。はるか昔の、遠い記憶。
「いつも、あずささんはあんなふうに痛いことされているの?」
(——痛いこと)
昔のことを思い出していると、遼介が私に聞いている声がした。
「……そう、なのか。怒らせてしまった時だけだが……」
「怒ると、髪引っ張るの?」
(……)
「あずささん」
(…………)
「怒ると、どんって、壁にどつかれるの?」
(……何を、言っているんだ)
視線が泳いだ。遼介の言っていることは私にも聞こえている。
だが言葉の意味を受け止めることは怖くてできなかった。思わず目を閉じ、耳を塞いだ。
今まで兄からされてきたことは、全部自分が兄を怒らせてきたのが原因だと思っていた。試合を見に行った時のことも、外出して体調不良で帰宅するくらいなら最初から出かけなければ良かったのだ。今日は他人を家に招き入れたからだ。もしそれ以外に原因があるのなら兄に聞けばいいのだが……。本当は、他に何か理由があったのだろうか。
遼介が何か話しているような声がするがよく聞こえなかった。
兄に聞けばよかったのに、しなかった……。
非があるのは、私だ——……。
外は蒸し暑いのに身体も指先も冷たくなっている。
私は俯いて震える腕を抱きかかえた。頭がうまく回らない。
遼介が、また背中をなでてくれていた。
◇
あずささんが帰ってしまった。あの、怖いお兄さんがいる家に。
僕は止められなかった。自宅に帰ると言ったあずささんを、どうしてだめだと言えるのか分からなかった。
急いでここまで走ってきたのであずささんは靴下を履いただけの状態だった。すれ違う人が足元を見て驚いていた。僕はというと、鞄を彼女の家に忘れていったみたいなので(よく覚えていないけど、たぶん廊下にでも落としていた気がする)、トボトボと二人して彼女の家まで歩いた。
無言だった。
こんなに黙ることは母の葬儀以来だ。
頭の中がぐちゃぐちゃで、いつものようにおしゃべりができない。
『遼介が、気にやむ必要は、まったくない』
あずささんはきっぱりと言った。転校初日、初めて会った日を思い出した。
真新しい制服をとてもきれいに着て、透き通る声で自己紹介をしていた。笑うことはなかったし、自分から話すこともなかったけれど、授業中、落ち着いた声でよどみなく音読などをする時は、僕は安心して聞いていたものだった。
(その頃に、戻った?)
一緒に図書室で話したことや、椿と一緒に剛の試合観戦に行ったことや、一緒にお弁当を食べたこととか。それらが何もかもなくなって最初のあずささんに戻ったような気がした。
「本当に、帰るの?」
あずささんの家の玄関ホールに入ると、ちょうどマンションの人が出て来るところでガラスの扉が開いていた。彼女は迷いなくエレベーターのボタンを押した。
「遼介の、鞄を持ってくる」
ここで待っていてくれ、そう言い残し、スタスタとエレベーターの扉に近づいて行った。
僕には恐ろしい扉にしか見えなかった。
案外早くあずささんは戻ってきた。手に僕の鞄を下げていた。
渡す前に鞄についた砂をそっと払ってくれた。
そして、その日僕らは別れた。
◇
遼介がひどく落ち込んでいた。見るからに元気がない。こいつにとってはかなり珍しいことだ。
そして今日はあずさが欠席だった。担任の数学教師が理由を知っている生徒がいるかどうか尋ねている。家族からの連絡すらなかったようだった。
「おい、昨日、靴届けられたのか?」
朝、念のためあずさの下駄箱を見てみたが、上靴も外靴も入っておらず、空だった。
昨日は遼介がゴミ箱に捨ててあった外靴をあずさに届けたはずだ。だから聞いてみた。
「え……、あ、うん」
歯切れが悪い。
「届けたよ。自分で捨てたわけじゃないみたい……」
だとしたら、誰かが故意に捨てたのだ。
俺はまっさきに「いじめ」の可能性を考える。最近はどこもかしこもいじめが問題になっている。暴力とか呼び出しとかの大っぴらな態度ではなく、陰湿で険悪で、タチの悪いやつが多いのだ。
「家、迷わなくて良かったな」
昨日、何かあったのだ。
直感的にそう感じたが、俺の口からは茶化す言葉が出た。
遼介はぼんやりと俺を見、こくんと頷くだけだった。
今日は曇天だ。遠くの方にはいやな黒い雲がうっすら見えている。
遼介から昨日の出来事を相談されたのは昼飯を食っていた最中だった。
珍しく奴から昼飯を誘われた。
「昨日ね、あずささんに靴を持って行ったんだ」
「ん? おお、渡せたんだろ? 良かったな」
「……うん、そうなんだ」
遼介は白飯を一口ほおばった。咀嚼しながらしばらく悩み、それから切り出した。
「帰ろうと思ったらね、お兄さんが来たんだ」
「兄?」
「うん……あずささんの、お兄さん」
「……それで?」
聞いた瞬間、遼介の両目から涙があふれてきた。体を震わせ嗚咽を漏らしながら、なんとか話す。
「……お兄さんね、すごく怒っててね、あずささんを……」
「あずささんを、壁に叩きつけてた。髪も、こう、ぐっと掴んでさ……」
手で髪を引っ張る仕草をしながら、遼介は話す。
そこからは、もうぐちゃぐちゃだった。
遼介は泣きじゃくり、とにかく怖い、帰ってしまった、外に放り出された、痛い、などまくしたてて状況を説明しようとしていた。俺にはDV(ドメスティック・バイオレンス)にしか聞こえようのない内容だった。
(あずさはDVを受けている……?)
知識としては頭にあるが、実際俺の生活はそれとは無縁の暮らしだ。遼介もそうだ。特に遼介は、姉弟ゲンカでも手が出るような環境になく、小さい頃もケンカが弱かった。俺の後ろに隠れたり、逃げ出したりするような奴だった。
どれほどの暴力かは分かりかねるが、相当怖い思いをしたに違いない。
そして思っているほど簡単にどうこうできるわけではない。
家庭内の出来事なんて、そもそもプライベートな問題として扱われ、他人が手出しできることは少ない。俺が知った内容もあくまで遼介の主観による話だ。DVと断定できるのかも分からない。
俺は考える時の癖で、眉根を寄せ額に手をやった。
本当に、やっかいだ。
「剛……どうしたらいいと思う?」
太い眉をハの字にして、遼介が泣き腫らした目で俺に聞く。
俺は黙って首を横に振った。俺だってどうしたらいいか分からない。
弁当はすっかり冷めきっていた。俺たちは黙りながらまた飯を食う。ひどく味気ない昼食だった。
◇
放課後、喉が乾いたので自動販売機で紙パックのカルピスを買った。ストローでちゅーっと吸いながら廊下を歩いていると、ふいに声をかけられた。
「翠我くん」
僕を呼んだのは、同じ小学校に通っていた柊さんという女の子だった。
「あぁ……柊さんか。久しぶり」
「久しぶりー! 元気……じゃないみたい、大丈夫?」
目の前の柊さんはそう言って微笑んだ。
髪がふわっとしていて口がつやつやしていた。小学校の頃のイメージと全然違ったので一瞬誰かなと思ったけど、すぐに思い出した。女の子は中学生になって印象がガラリと変わる人がいる。椿も……今は五歳だけど、そのうちこんなふうに変わるんだろうか……?
「翠我くん、目、赤いよ? 大丈夫?」
「あ、気づかれちゃった?」
僕は目に手をやった。昼食の時、剛にあずささんのことを相談していて思い切り泣いちゃったのだ。けっこう時間が経っているけど目の腫れぼったさは相変わらず残っている。
「ちょっと、友達のことで困ったことがあって」
「……そうなんだ」
「剛に相談してたら、ちょっと泣いちゃって」
中学生にもなって泣くのはさすがに恥ずかしかった。でも嘘はよくない。正直に僕は言った。
「……五十嵐くんとは今も仲がいいのね」
「あー、そうだねぇ」
「うらやましいなぁー」
柊さんはそう言って、にこにこ笑っていた。
『あなたのことが、きらいです』とはあまり言わないけど『あなたが、好きです』とよく言うのは不思議だと思う。あえて好きだということを言うのは、しっかり伝えたいからなんだろうか。
柊さんは、昔、僕にわざわざ好きだと言ってくれた女の子だ。小学校の頃だった。
あまりよく覚えていないけど、好きと言うだけではなく特別なことをして欲しがった。
例えば一緒に帰るとか、遊ぶとか。
二人きりで、とも言われた。剛や他の子と一緒に遊ぶのでは納得できないようだった。
僕にはよく分からなかった。
特別なこと。
そういえば、最近クラスメイトの話に、誰と誰が付き合ったとかいう話題が多くなった。そういうのを特別な関係とでもいうのだろうか。家族ではなく、友達でもなく、それ以外の関係。彼らは一体「特別に」何をするのだろう。
「最近、同じ小学校だった小林さんがね」
柊さんの話題は他のことに移っていた。小学校の高学年頃から、僕は剛以外の友達とあまり遊んだ記憶がないことを思い出す。
でもこれらを深く思い出すと、つらいこととか悲しいことが一気に——洪水のようにどうしようもなく——溢れそうになるので急いで蓋をした。小林さん、という女の子はどんな顔だっけと必死に考えていた。
◇
翠我くんと久しぶりに話ができて私は有頂天だった。
中学生男子にしては背が低めで柔らかい声の彼は、昔と比べて少しずつ男らしくなっているように見えた。カルピスという甘い物を飲む彼の手が骨ばってきているのも魅力的だった。
「友達のことで困ったことがあって」と言っていた友達は、あの女のことなんだろうか。一瞬顔が強張ってしまったが、彼は気が付いていないようでホッとした。
もうすぐ始まるテストとか勉強の話題は避けたかった。あまりにもつまらない内容ではないか。だから、共通の、私達だけの話題(小学校のクラスメイト)を選んだ。
彼は始終微笑んで聞いてくれた。
とても素敵な時間だった。
◇
さらに翌日。
気温がぐっと下がり、朝から細かい雨が降っていた。
僕はいつもの淡いクリーム色の傘をさしながら登校していた。ひどく疲れていた。
そもそも朝から椿が不機嫌で、自分の靴下(雨の日に履きたかったというカエルの絵がついたもの)が洗濯中なのが気に入らないと言う理由で、朝ごはんをなかなか食べてくれなかった。なだめすかし、小さなおにぎり一個と具だくさん味噌汁をどうにか食べさせ、保育園へ送る準備をしていた段階で、珍しく今日は椿を送る当番だった梨枝姉の出勤時間が早まることになり、急きょ僕が送っていくことになった。それも椿は気に入らないようだった。
何もかもがうまくいかない。
椿に腹をたてても仕方がないのは分かっているけれど、梨枝姉は仕事だ。僕だって八つ当たりされたら……さすがにイライラする。
大きなため息をつき、それから深呼吸をして、気持ちを切り替えようと努力する。
傘を斜めにして空を見上げた。顔に雨粒がさらさらと当たる。
僕はいつも椿を保育園に預けてから登校する。園と学校は自宅をはさんで全くの逆方向なので、僕は毎朝遅刻ギリギリか遅刻をすることになる。
今日は椿のぐずりで何もかも遅くなり、完全に遅刻だった。
家を出る前に園と学校の担任の先生には電話を入れていた。
翠我家に母がいないことを知っているので、僕をよく理解してくれる優しい先生達だ。
傘を閉じ、傘立てに入れた。忘れ物の傘も混ざっているので雨の日の傘立てはぎゅうぎゅうだ。力を込めて押し込まなくてはならない。
ぺたんぺたんと靴音が鳴り響く。ホームルーム中の廊下はとても静かだ。
僕は自分の教室を目指して歩いていく。
二年一組、教室の扉を開け、みんなの視線を一気に集める。
僕は目を瞠った。
僕の席の後ろに、あずささんがいつも通りに座っていたのだ。
◇
兄の逆鱗に触れた翌日、私は初めて学校を休んだ。身体が鉛のように重く、布団から出るのでさえかなりの時間を要した。食事をする気にはならなかったが、しばらく何も食べていなかったことを思い出し、とりあえず桃を食べた。柔らかくてぽってりとした桃はとても美味しかった。
台所はしんとして冷たかった。裸足の足裏に冷たさが伝わってくる。
兄が、今、どこで、何をしているのかは、まるで興味がなかった。
桃を食べ終え、果物用の細いフォークとお皿を流しに置いた。お腹に手をあててみると、ふと温かいお茶を飲みたくなった。
(紅茶に牛乳を入れて、飲もう)
淡々と、私は手を動かす。
紅茶茶碗を茶箪笥から出し、紅茶のティーバッグをひとつ引き出しから取る。ちょっと考えて、紅茶ではなくほうじ茶に変更した。茶碗をお湯で温め茶葉は丁寧に蒸らし、別に温めた牛乳と一緒に注ぎ入れる。温かい香り豊かなほうじ茶ラテができあがった。茶色い角砂糖も一つ落とした。
飲みながら頭の片隅に、遼介の泣いている顔が浮かんだ。
両目から大粒の涙を落とし、謝っている顔が。
彼が自分に謝罪する理由が分からなかった。彼もまた、兄に投げ飛ばされ負傷してしまったはずだ。
兄が時折、父や母が不在の時に私を困惑させるようになったのは、私が小学生の頃だっただろうか。頭の中は幾重にも膜が覆っているようで、うまく思い出せない。初めは、私の大切にしている物を壊したり、隠されたりした。母が縫って作った女の子の人形や、自分専用の茶器など。当時は確か泣いてしまった気がする。
『おまえを引き取ったのは失敗だった』
父はしばしば兄にひどいことを言った。
兄は父が家業を継がせるために養子にした人間だ。私は女だから継がせることはできないのだ、と苦々しい口調で言われたことがあった。
兄が家に来た頃から、私は本宅(父と兄が住む屋敷)へ足を踏み入れることは少なくなった。使用人と同じく離れで暮らしていた。たまに茶会の準備の時などに父と兄を見かけたが、二人はいつも険悪で、お互いに顔を向き合わせることは一切なかった。
その父と母も、もうこの世にはいない。
二年前に事故で亡くなってしまったからだ。
兄と私には両親の遺した莫大な財産が残った。
結局兄は、父と和解する機会を永久に失い、ずっとやり場のない感情を持ち続けて生きていくしかない。私は、女という理由で初めから何もない。途中までは男として(いずれ継がせるためにと考えたのだろう)育てられ、茶道のあらゆるものを叩き込まれはしたが結局はなくなった。ただただ生きて、母や百合さんから家の仕事を教わり、いずれくる縁談の駒として利用されるはずだった。
一日休んで、次の日は学校に行った。雨だった。
朝、支度をしていると兄が私の後ろに立った。おそるおそる振り向くと、憔悴した顔で何も話さず、ただぼうっと突っ立っているだけだった。
「……行ってきます」
玄関で靴を履いた。これは遼介が私のためにわざわざ学校から持ってきてくれたものだ。自分の傘を取り出し家を出た。扉が閉まる瞬間にもう一度兄を見ると、捨てられた子犬みたいな目で私を見つめていた。
* * *
「あずささんっ、今日、あそこ、行ってみようよ!」
昼食の時間になり、遼介からいつもの茶室がある裏庭で食事をしようと誘われた。
四時間目の終業のチャイムが鳴って数秒後に、彼はくるりと後ろを振り向き、私の机の上にぐっと身を乗り出してきた。
「遼介……? 今日はちょっと……雨が降ってるし……」
「えっ? 雨……。あーっ、そうかぁ。雨かぁー」
うらめしそうに遼介は窓の外を見た。依然として天気はよくなかった。
「お前、飯は? 売店でもいいけど、何なら学食でも行ってみるか?」
剛が私に尋ねた。お弁当のことをすっかり忘れていたので確かに今日は食べるものが何もない。
「学食とは何だ?」
「学生食堂の略だよ」
「そこで、何をするんだ?」
「食うんだよ、飯を」
「……そういうところがあるのか」
私の返答に剛が大きくため息をついた。隣の遼介はというと、財布を片手に既に立ち上がっていた。
「行こう行こう!」
「決まりだな。西棟の一階にあるから、行こうぜ」
よく分からないまま、私と遼介と剛は連れ立って学食へと歩いて行った。
自然と、遼介と剛が前に並び、私が後ろから付いていく状態になった。彼らはずっと話をしている。
「学食、久しぶりだなー、何食べようかな」
「え? お前も弁当ないのか?」
「そだよー、朝すごいバタバタしちゃってさー」
(……バタバタ)
夏服のせいか行き交う生徒たちは皆一様に白い。遼介は白い半袖シャツの上に首元がV字の白いベストを、剛はベストは着ておらず長袖のシャツの袖を捲り上げていた。
後ろからこの二人をしげしげと眺めてみると、遼介と剛は背丈にとても差がある。中肉中背で私と同じくらいの背の遼介と、剣道部所属のがっしりと逞しい剛。見た目はこんなに違うのに、不思議と仲が良い感じがひしひしと伝わってくる。
くるりと遼介が振り向いた。
「あ、いた」
私がちゃんと離れずに付いてきているか心配にでもなったのだろうか? 幼い子供じゃあるまいし……と思い、椿ちゃんのことを思い出した。
遼介は、いつも椿ちゃんのことをこんなふうに振り向いて時折確認しているのだろうか? 剣道の試合を見に行った時も彼はそれとなく妹を気にかけていた。
「いた……って、お前さ、いるに決まってるじゃん」
剛が笑う。だってー、と遼介が子供のような声をあげたので、私は思わずこう言った。
「椿ちゃんではないから、迷子になど、ならない」
「!」
遼介は一瞬びっくりした顔になり、それからふふと微笑んだ。
「うん、僕もつい椿といる感じで後ろを見ちゃったよ」
学食に到着した。
とてもにぎやかな空間に私は戸惑ったが、どうにかそれぞれ食事を注文し、学食とやらの窓辺のテーブルに座ることができた。遼介は焼きそば、剛はカツ丼を。私は何を食べていいものかさっぱり思いつかなかったので、遼介と同じものを注文した。ガタンガタンと大きな音を出し、椅子とテーブルの隙間を調整する。何もかもが新鮮なことだった。
◇
あずさがまた学校に来た。俺は正直なところ、もうあずさは学校には来ないのではと思っていた。俺の両親が警察官なので、あずさのことは伏せて軽くDVについて聞いてみた。遼介の話の内容だけで判断すれば、あずさの現状は完全にDVに当たると思っている。
「あずささん、僕さぁ、昨日はずっと心配してたんだよ」
遼介は目の前の焼きそばには目もくれず、ずっとあずさに話しかけている。こいつはオブラートに包んで意見を言うことはできない。正直に、思った言葉をどんどん投げかけている。
「あの後、お兄さんはまだ怒ってた?」
「怒ってない」
「痛いこと、された?」
「されていない」
あずさが遼介とスムーズに会話をしている。変わったなと感じた。
「遼介こそ、兄がひどいことをしてしまった。……申し訳なかった」
あずさが箸をわざわざ盆に置き、頭を下げて謝罪した。俺は驚いた。
「前も言ったけど、僕は気にしてないよ。あずささんが謝ることなんてないよ」
「でも」
「あずささんこそ、髪の毛引っ張られてたりしたでしょ? それはもう大丈夫なの? ……あっ! そうだ、あの日のこと、僕……剛に相談したくて、話しちゃったんだ。僕だけじゃどうしたらいいのか分からなくなっちゃって……。靴を見つけた時、剛もいたからさ」
まくしたてるように遼介が話す。
俺は黙ってカツ丼を食べながら二人を眺めていた。あずさは相変わらず姿勢良く食べている。しゃべりまくる遼介を疎んじている様子はなく、静かに聞き、少し考え、ゆっくりと丁寧に返事をしている。
(最初に感じた違和感は、ただゆっくりしている性格だったってことかもな)
俺は心の中であずさにそっと詫びた。
確かにこいつは普通のクラスメイトとはまるで違う変わった奴だ。だが、悪い人間ではない。世間知らずで動作がゆっくりなだけだ。
昼休みが終わる頃には、あずさの口から日常の様子を少し詳しく聞き出すことができた。ひどく理不尽な内容にも関わらず、あずさは現状を変えたいとは特に考えていないようだった。
「逃げる……?」
ポツリと呟いたあずさは、そんなことはできないしありえない、と続けた。
「でもまた同じことがあるかもしれないよ?」
「それは、私に悪いところがあったということだ」
「もし、悪いところがあったとしても、痛いことをされるのはおかしいよ」
「身体は無事だ。血が出るほどのこともない。あまり気にするな」
あずさと遼介の会話は平行線をたどる。
(典型的なDV被害者の心理状態なんだよな……)
俺は心の中でひとりごちた。相手を支配しようとする、そのための方法の一部が暴力や精神的虐待なのであって、あずさを意のままに操ろうとする心理がある限り事態は終わらない。いろいろなケースがあるが、相手を、自分に非があると信じて疑わない心理状態にしておけば、逃げ出すといったことや誰かに相談するといった事態すら起こりにくくなる。『とても、とても難しい問題だよ』と、俺の父親は苦々しく言っていた。
食べ終えた食器を盆に乗せて返却口に戻し、教室へ戻ろうかという時になって、遼介がお茶を飲もうと言い出した。学食ではお茶と水がセルフサービスで飲める。湯のみだとかプラスチックコップも自由に使えるようになっている。
「お茶、持ってくるね」
遼介がいそいそと三人分のお茶を持ってきた。湯のみからは白く湯気が立っている。
少し冷めるのを待ち、俺たちは黙って茶をすすった。
ふと目の前の二人を見やると、遼介もあずさも、そろって湯のみの糸底に手を添えて同じタイミングで茶を飲んでいた。まったく同じ動作だったのでうっかり口から茶を吹き出してしまった。
「きったないなぁ」
「汚いな」
遼介が笑いながら言った。あずさまでもが同じことを呟いた。
(つづく)
(第一話はこちらから)