子どものじぶんに帰る日
仕事の合間に書いている。
今日は会社が主宰する社外イベントの日で、15分後には運営メンバーの一員としてせわしなく稼働しなければならない。そのあいだの、ちょっとしたスキマに、高層のオフィスビルが林立する品川駅前のとあるオープンスペースで、奇妙な噴水型オブジェのちかくに座りながらカタカタと言葉を紡いでいる。
今日の仕事もあいかわらず忙しい。でも、この日は、毎年、いつも少し醒めた頭をしている。
今日は、母の誕生日だ。
ぼくは小さい頃から自他ともに認めるマザコンで、パートタイムの仕事から帰った母親をつかまえて1時間でも2時間でも茶を飲みながらその日のできごとを面白おかしく語らうような息子だった。
小学校やそこらの話じゃない。高校、さらには大学時代でさえ、ぼくのその習慣は変わらなくて、新しい友だちとの飲み会やデートやアルバイトに忙殺されながら、心がそこに帰りたがるように、母との談笑を楽しんだものだった。
その母は、ぼくが5年間の自堕落で奔放な大学生活を終えて、さぁフレッシュマンとして社会に出て働くぞ、というその年の初夏に体調不良から病院へ検査に行き、そのまま入院となって、ちょうど6ヶ月後の年明けに、他界した。
あまりにあっという間すぎて、いまでも、当時を振り返るとほとんど曖昧にしか記憶がない。ショックとか、パニックとか、そういうものを通り越して、ただ純粋に、目の前で起こっていることが、母に襲いかかった運命が、理解できない、そんな感じだった。
それでも、母が亡くなった2007年から、母の誕生日は、ぼくにとってそれまでと何ら変わりはない。世界でいちばん大好きなひとが、この世に生を受けた、愛すべきとくべつな日だ。
毎年この日を迎えると、ぼくは、誰にも気づかれずに、そっと子どもに戻る。小さな家の小さな食卓で熱いお茶を飲みながら、底抜けに明るい母とバカバカしい話で笑い合う、あの子どものころに。
母さん、誕生日おめでとう。こっちは何とか、がんばってるぞ。