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「家族」と「しごと」のあいだ

つい先日、長男が3歳の誕生日を迎えました。

その日は平日だったので簡単なお祝いだけして、今日の昼に、ケーキを用意して誕生パーティーをして。長男はとても喜んでくれました。

まだ身長が100センチにも満たない長男。それでも、この3年、長いようであっという間、それでいて目眩がするほどいろいろなことがありました。テーブルの、ぼくの横の定位置にちょこんと座って目をキラキラさせてケーキをほおばる彼を見ながら、3年間の思い出が浮かんできて、胸が熱くなります。

と同時に、この子と、それから向かいの妻の腕のなかでウニャウニャ言ってる0歳の次男を養っていくために、本当に、本気でしごとをしていかないといけないなとも思い、背筋の引き締まる緊張と、思わず逃げ出したくなる怖さを感じたんですね。

思えば3年間、ぼくはわりと長男と多くの時間を過ごしてこられたなぁと思います。

もともと社交的なタイプではないこともあり、休日はずっと家族といたし、残業が嫌い(体力がないのであんまりできない)なので、世のパパたちよりも早く帰宅していたんじゃないかなと。

そういう日々が自分にはものすごくフィットしていたし、周囲からの「けっこうお前ってイクメンだよな」というような評価にも満足していて、

「あくせく働いて家庭を犠牲にするより、仕事なんかいいから、家庭のほうを優先したい」

という意識が自分のなかでどんどん膨らんでいきました。

もちろん「家庭を優先」という考え方にウソはなく、ぼくは正直に言って仕事よりも家庭に多くの時間をさきたいと思っています。

いるのだけど、、、

かといって、日々の暮らしにお金が必要である以上、仕事をしないわけにはいかない。それはもちろんわかっていて。

そして、まぁもちろん一概には言えないけど、仕事というのはある程度成果を出したり稼ごうと思ったら、やっぱり多くの時間を投下しないといけないもので。

とくに周囲に優秀な人が多い職場だと、彼ら彼女らと伍していくためには、というより埋もれてしまわないためには、どうしてもそこに時間をたくさんかける必要があると思います。

それは単なる残業論とかではないのだけど、ものの質を高めるにしても、あるいは行動量を増やすにしても、やっぱり時間を多く使えるのは有利なのではないかと。

最近一定のインフルエンサーを中心に「圧倒的努力」とか「結局は量」とか「どれだけ突き抜けられるか」といった、21世紀にそれかよと思ってしまうような根性論的メッセージが増えているように感じるけど、それはきっとひとつの真理、ひとつの本質なのだと思います。

シンプルで残酷だけども、結局は誰よりも物量をこなした人、誰よりも時間をそこに投入した人が成果をつかむという。

それで、ぼくはそこまで圧倒的に他者から突き抜けたいとは思わないのだけど、それでも、これまで迷惑をかけてきた妻をそろそろ安心させてあげたいし、子どもたちにも、贅沢は別にしなくていいけどお金のせいで選択肢を狭めてしまうとか、お金のことで両親の仲が不穏になって悲しい思いをさせるとか、そういうことは絶対にさせたくないと思っていて。

となると、やっぱり仕事というものに投下する時間量を、根本的に増やさないといけないなぁと、36歳にしてようやく考えるに至ったわけです。

でも、ということはそのぶんどこかの時間を削らなければならず、それは大好きな家族との時間であったり、その次に好きな睡眠の時間だったり執筆の時間だったりするんですね。

「もうわかったよ」と言われるかもですが、ぼくは本当に家族のことが好きで。子どもたちと過ごす時間は本当にかけがえなくて。もちろんたまには怒ったり疲れてぐったりしたりもしてしまうんですが。

といってもじゃあ子どもたちはと言うと、いつまでも「パパ大好き」なんて言ってくれないわけですね。3歳になった長男も、きっと数年後には今のようにぼくの相手なんてしてくれなくなることでしょう。でもそれでもいいんですよね、そうだからこそ、今という限られた時間を一緒に過ごせることが大切なので。

つらつら書きましたが苦悩は晴れません。答えは見つかりません。

家族ともっとたくさんいたい。それでも、仕事に費やす時間ももっと増やさないといけない。

このことを考えてると頭がずーんと重くなります。どっちかに振り切ってしまえたらどれだけラクかと思ってしまう。

葛藤はしばらく続きそうですが、悔いのない道を歩いていきたいものですね。

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ミウラジュン
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