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今日は泣いてもいいんだよ


2021年8月のFUJIROCKはわたしの夏の一大行事になるはずだった。

そう、なるはずだったのだ。
10年間通い続けていた苗場に行かない2年目の夏。


FUJIROCKが開催する、しないで世間が過剰になって反応していたのも知っている。
出演するアーティストも文面を次々と発表し最後まで葛藤していたのも知っている。
参加者だってきっと色んな思いを馳せて現地へ向かったとこを知っている。

正解や不正解は存在しない。
きっと今年開催しなければ、来年、いや今後の開催はもうないかもしれないという危機的状況だったと考えているし、わたしはFUJIROCKがこの先も続くくことを祈り続けているひとりだ。


それぞれが色んな意見や思考を持つ中、わたしが届いているチケットを片手に木曜の夜にようやく出した結論が今年は参加しないというものだった。

理由は単純なもので今よりも “未来” を選択しただけだ。
わたしはこれから森の映画祭というイベントを控えている。
何年も前から構想し行動しようやく実現出来ることとなった特別なイベントだ。


イベントを企画しているわたしが今離脱することになったり
FUJIROCK後に入っている数々の打ち合わせやフライヤーの配布を
FUJIROCKに行ったから2週間自粛して生活しますなんて理由で延期したり出来るわけがない。
たくさんの協力してくれる人の顔がよぎっては消えてよぎっては消えて
まるで戦場に行くような気分になってしまったのだ。

あの最高に楽しい場所が戦場に思えてくるなんて馬鹿馬鹿しいかもしれない。
だけどそれが、わたしが感じた正直なきもちだった。
わたしは早朝、早起きして清々しい気持ちで行くであろう人達に
行ってらっしゃいと呟いた。


ところが3日間はYOUTUBEの配信を見ながら、目まぐるしい感情と過ごしていた。それはやっぱり画面で見ていても音楽の力に圧倒されたから。


演奏が始まるたびに身体が痺れて何度も涙が出てきた。
もう2年近くも生の音を聴いて踊っていないんだもの、当たり前。
突きつけられる衝動をどう言葉にすればいいんだろう。

自由であるべき音楽がこんなに不自由なものになる日が来るなんて想像もしていなかった。



演者側も、言葉を選びながら、発信することの重さを感じながら自分の思いを伝えてくれていたように感じる。
ひしひしと感じる以前とは全く違うFUJIROCKに、いやフェスの在り方に、もう戻れない何かを感じた人も多いんではないだろうか。
なにが新しい見本となり、なにがスタンダードに残っていくんだろう。FUJIROCKという大きな船に乗るひとりひとりが考えていかなくちゃいけないことのような気がした。


終息を願いそしていつか
わたしは大好きなFUJIROCKでみんなと手をかかげ自由に踊りたい。
躊躇わずに“FUJIROCKに行きます”と胸を張って言えるその日を楽しみに今日もわたしはナンバーガールを聴いて過ごすのです。



YOUTUBEを配信してくださった方々に深くお礼を言いたい。
きっと会場に行けなかった人たちのこの夏いちばんの思い出になったから。
ありがとうございました!!


最後にGEZANのマヒトの文章を読んでもらいたい。

思えば、もうここ数年、潔白と呼べる状態はなく、常に濁りと混乱を携えながら生きてきたように思う。リスクを天秤にかけ、知らぬ間に何かの加害に参加し、見えない何かの暴力に加担していたり、一方で誰かの救いになっていたり。聖人君子などではない、叩けば埃の立ち上がる混乱の日々を、それでもできるだけ優しさと共にありたいと思いながら駆け抜けている。

昨日会った知人はフジロックのために二週間前からカレンダーに〇を打って好きな外出と酒を控えていると言った。「フジにこの夏の全てをかけている」と屈託のない笑顔で言った。命という絶対的な価値の前に、弁明にもならないなんでもない声なのは承知だが、一人一人かける想いや生きていることの意味や意義、そしてそのレイヤーはバラバラだ。

ライブをめぐるこのコロナ禍の日々はひどいものだった。十分な補償のない中で自粛しろという勧告が自動音声のように繰り返され、音の出る現場は槍玉に挙げられ袋叩きにあった。乱発する意味のあるのかないのかわからない緊急事態宣言に右往左往させられ、イベントは潰された。仕事を失って転職した音楽関係者を何人も知っているし、経営破綻するライブハウスの思い出を発表と共に熱く語ったところで時はすでに遅い。

フジロックはネームこそ大きいが巨大な自治だ。関係者の空気感から察するにもう一年延期する体力はないだろう。それほどまでに逼迫した現状はまず周知すべきだと考える。
生業にしてるのは音楽関係者だけではない。祭りにまつわるケータリングなどのフード出店も切実だ。巨大なビジネスに見えるがその内情は顔の見える個人店舗によって成り立っている。資本のあるオリンピックとそこは大きく違うだろう。

わたしはアーティストだ。音楽で生計を立てている。会社員が電車に乗って出勤するのと同じように、わたしは現場にいき、音を鳴らす。それが仕事だからだ。
「収束した折に」という弁もあるが、わたしたちは記号ではないし、この世界はゲームではない。セーブもできない日々は当然巻き戻しもできない。
事実、GEZANのオリジナルメンバーであるベースのカルロスは2021年1月1日のフジロックの配信ライブで、舞台を降りていった。突きつけられるコロナ禍が変えてしまったもの。比喩ではなく、腕がもがれたような痛みと共に目の前が真っ暗になった。恥ずかしい話、一人の部屋で何度泣いたかわからない。
命という絶対的な価値の前にはこれも自分勝手の一言で片付けられてしまうかもしれないけど、わたしたちには今しかない。そしてそんなわたしたちを生かすフジロックという稀有でオルタナティブな現場にこそ生き残って欲しい。

客も演者も主催も同じ船の上にいる。全感覚祭というフェスを主催する身としてそう言える。この時代はただの傍観者でいることを許さない。それぞれが何を大切にし、未来と呼ばれる時間に何を残すか、その選択が委ねられている。

批判や責任の一端を背負った上で、個人的な切実さを理由にわたしはフジロックのステージを全うする。



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