実家が太い人には「団地の子」の気持ちが分からない
すみません、今回ちょっと長くなります。理由は僕の自分語りがクッソ長くなっちゃったからですw
結論としてまず述べておきたいのは「子どもの教育は親の収入や学歴に左右される」ってことです。動画の内容もこれと関連しています。アメリカで経済学者になれるのは親が院卒で金持ちの家庭、かつ白人に偏ってるそうです。
■経済学はダイバーシティが遅れている
これが問題視されてて、経済学ってそもそも大多数の「普通の家庭」やその下の「貧しい家庭」を支えるために存在する学問なのに、実際その研究に就いているのは一部の限られた超絶エリートに偏っている。てことは一般人やそれに満たない層の金銭感覚が分からないから、バイアスがかかって施策が的外れになるんじゃないか?と指摘されている。
今の経済学界をダイバーシティの観点で見ると、貧乏人がチームにいない時点で多様な知見を取り入れられてない、だから経済学者の提唱する政策は金持ちの視点で凝り固まってしまう、ということ。
そういえば日本でもダイバーシティ推進委員会のメンバーが全員、中高年男性で構成されてるというエピソードがあったよね
■親の学歴が高くないと経済学者になれない
本人が大卒でも親の学歴が低いと経済学者になれないというデータがある。例えば、家系をおじいちゃん世代まで遡って自分だけが大卒だという人が経済学者になった割合は6人に1人でしかない。てことは残りの5人は親が優秀じゃないと経済学者になれない。その意味でもダイバーシティが進んでいないのがわかる。
なぜダイバーシティにこだわるのか?については、このあと説明していく
■なぜダイバーシティが必要なのか
ちょっと脱線するけど、例えばAI分野ではダイバーシティが強く求められている。アメリカの入学試験でAIを導入したら白人ばかり受かったというエピソードがあって、これの原因を辿っていったらAI自体が白人のデータしか持ってなくて白人を優先して受からせていたというお粗末な話だった。
これの何が問題かというと、本来受かってたはずの「黒人だけど優秀な人」や「ヒスパニックだけど優秀な人」「アジア人だけど優秀な人」を取りこぼしていたかもしれないから。じゃあAIに多様なデータをインプットして優秀な人は人種や国籍にかかわらず採用したほうがいいよねってことでダイバーシティが求められるようになった。
これと同じことが結果的に経済学で起きてて、だから採用基準とかを変えないとダメなんじゃね?という視点で切り込んでいるのが引用元の動画である。
というわけで、いったん動画についてまとめると、まず経済学の世界では高学歴の金持ちばかりに人材が偏ってる。そうすると研究や施策にバイアスがかかるから、本来経済学がターゲットとしている一般人や低所得者を助ける成果が出にくいんじゃないか?と指摘されている。これに関してAIの世界でダイバーシティが重要視されてることを例に出して、じゃあ経済学もダイバーシティが遅れてるから何とかしたほうがいいんじゃね?という話。
フゥ~~~~、ここから自分語りいいっすか?今回の動画は色々と思うことがあったので自分の子供の頃のエピソードとかを書いていきたい。
■「団地の子と遊んじゃいけません」について
はい。ここでタイトル回収。
僕は、いわゆる「団地の子」だった。かつて金持ちやエリートの家庭では、子どもに「団地の子と遊んじゃいけません」と教えていた。今もそういう教えってあるのかな。あれ、大人になってから思い返すと意味がある教えだったのかもしれない。
金持ちは自分の子どもに質の高い教育を施したい。その理屈の延長上で、程度の低い(とされる)文化には触れさせたくない。だから「団地の子とは遊んじゃいけません」という教えが生まれる。なぜなら団地住みの世帯は低学歴・低所得の層が比較的多いからだ。ちなみに僕は低所得者向けの市営団地に住んでいた。
「団地の子は認知機能が低い」というのは偏見だと思うだろうか。でも親の学歴や所得が子どもの教育レベルを左右するというデータもあるし、もっと言えば、貧困が人の認知機能を低下させるという研究もある。「貧困が貧困を再生産する」というある種の呪いは、やはり実在すると思う。残念ながら僕もその「再生産」のスパイラルに組み込まれていて、若い頃に大きな失敗を経験したことがある。
https://www.science.org/doi/abs/10.1126/science.1238041
引用元は英文なので翻訳して読むことをおすすめする
さて、話を進める前にこれだけは言っておきたいんだけど、僕は両親にとても感謝している。「もしウチがお金に困ってなければ」と思ったこともあるけど、それは仕方のないことだった。両親は僕を育てて、メシを食わせるので精一杯だった。日々を生きるのに精一杯で、その先、つまり「教育」にまで手が回らなかった。でも僕にとってはもうそれで十分だ。足りない分は自分でなんとかする。
僕は大学に通い始めた頃、家庭教育がどれほど重要なファクターとなるかを思い知った。学びそのものの習慣の有無、基礎的な金融教育の有無、子どもに多様な経験をさせられるだけの資本力の有無。これらは年を重ねれば重ねるほど効いてくる。同じ学生でも飛び抜けて成績優秀で将来へのモチベーションや自己肯定感の高い学生は、一様に家庭環境が良好で、端的に言うと「実家が太かった」。
僕は別に、自分の無能さを育った環境のせいにしたいわけではなくて、「親の資本力で子どもにゲタを履かせることができる」というのを指摘しているにすぎない。あと、お金の扱い方全般、例えば貯蓄や投資への態度などを親がきちんと見せている家庭では、子どもが早期からそれらに取り組むことがわかった。残念ながら僕はその基礎がなかったので、後になって苦労することになったわけだけど。これに関しては今からでも遅くないと思って自分で学んでいる。
子どもの頃住んでた団地は、すぐそばを大きな国道が通っていた。そこを挟んで向こう側には、大手電機メーカーの工場がドッシリと建っていた。その社宅にはメーカー勤務のエリート転勤族が住んでいて、小学校にやってくる転校生はその転勤族の子が比較的多かった。僕ら団地組は彼らを「社宅の子」って呼んでたんだけど。
で、仲良くなって遊びに行く機会ができたわけだけど、そんな中で聞かされたのが「団地の子とは遊んじゃいけません」って言葉だった。これは「社宅の子」の親がヒソヒソと言ってたことなんだけど、当時の僕は「そっちだって団地住みじゃん」と思ってた。でも僕は、だんだんと彼らとの違いを理解していった。
たしかに、住まいの間取りとかは「団地」の一室と何ら変わらないんだけど、部屋の清潔感とか家具家財の質とか、お母さんが出してくれるおやつの質とか、ひとつひとつの要素が僕らの日常とは違っていた。この違いは、年を経るごとに強く意識した。人間関係は同じレベルでしか成り立たないというけど、年齢を重ねて中学、高校、大学、と進学するにつれて「人間関係のデータ」はイヤでも積み上がっていくし、その過程で「社宅の子」みたいに裕福な家庭との比較も積み上がった。
10代後半になって、何よりも親の質が違っていたということにハッキリと気づいた。
「親の質」というとイヤな言い方だけど、他に言いようがなかった。重ねて申し上げておきたいんだけど、僕はこういう言い方をしているけど自分の両親には本当に感謝している。ただ残念ながら所得格差=教育の差だという事実は否定しようがないので、その文脈で話を進めたい。
■結局、金持ちの親は優秀なのだ
さて、「社宅の子」の家庭ではテストの点数に厳しく言及していたし、学校の勉強の内容を親子で話す機会も多かったし、子どもの言葉遣いに対する指摘も頻繁だった。社宅の子の家は親が厳しくて、ちょっと居心地が悪く感じた。声を上げて威圧するようなことはないけど、一言で言うなら「厳格」だった。親の厳格さは、僕にはあまり馴染みのない文化だった。
一方、われわれ「団地の子」はどうだったかというと、団地内のどの友達の家に遊びに行っても、親に勉強のことなんか指摘されなくて、言葉遣いが乱暴でも許されたし、とても居心地が良かった。むしろ「学校の勉強なんかできたって人間の価値はそんなことで決まらない」って言ってる親が多かった。
僕はこの差を「親の質」だと認識している。
団地組の親たちはみんな「勉強なんかで人間の価値は決まらない」と言ってたけど、団地内のとある家庭では親が酒に酔って暴れることが多かったし、別の家庭では親が窃盗で逮捕されてたし、さらに別の家庭では毎晩のように不良の中高生が溜まり場にして大騒ぎしていた。僕は昔の彼らに聞いてみたい。「それがあなたたちの言う、人間の価値なんですか?」と。
■それぞれの未来
僕らそれぞれの未来がどうなったかについては、あまり具体的に書くと個人の特定に繋がりかねないので、ぼやかして書くことにする。
エリート組の「社宅の子」をはじめ、比較的裕福な家庭に育った子たちは、偏差値の高い学校への進学率が高かったし、大学進学率もよく、就職先も大手企業だったり、一部は国の省庁に勤めてたり、おおむね良好な未来に到達している。
われら「団地の子」はどうだったか。2年くらい前、中学の同窓会で再会した団地組の友達を見て、僕は言葉を失った。歯がボロボロだったからだ。シンナーだろうか。タバコだろうか。彼は僕に気づくなり、真っ黒でガタガタになった歯を見せて、ニコニコと笑った。彼の口から語られる言葉は、小中学校時代の思い出話ばかりだった。僕は本当は「自分が今何をしていて、これからどうしたいのか」を話し合いたかったのだけど、彼が満面の笑みで語り続ける「昔話」に、どうしても水をさす気にはなれなかった。
あまつさえ団地組からは僕と同じ世代からも逮捕者が出たし、手首がリストカットの傷痕だらけになってて、いまだに社会復帰できてない人もいる。はっきり言って僕も一歩間違えたら彼らと同じになっていたと思う。我が家は幸いにして家族仲が良好だったので最悪の事態になるまで堕ちずに済んだけど、どうしようもなく死にたい時期が10年くらい続いていた。
僕は自他の経験を通じて、貧困は心も貧しくするんだということをイヤというほど学んだ。上述した「貧困が認知機能を低下させる」というのは、精神的な意味でもその通りと言わざるをえない。とはいえ僕が「貧困の再生産」という負のスパイラルを断ち切れるかは、まだ分からない。でも、せめて努力はし続けていたい。
そういえば、どっかのお嬢様が「学歴重視の社会から経験重視の社会へ!」なんて得意げに語ってたけど、「経験重視の社会は最も格差を拡大する」と成田悠輔氏が指摘していたのを思い出した。アメリカでは就活で有利な経験を買うために百万円単位のパッケージツアーがあって、裕福な家庭ほど有利になっているという。
ダイバーシティという観点で言うなら、裕福な家庭と貧しい家庭が人間関係において混ざり合う機会はあったほうがいいかもしれない。ただ、そうすると交わりの中で貧困側のルサンチマンが醸造されて幸福度が下がるリスクもありそうだから、このへんは微妙かもしれない。でも僕は裕福な家庭に触れられてよかったよ。おかげで多くの気づきを得られたので。
僕の両親、とりわけ母親はいつも、「子どもたちにもっとたくさんの教育や経験をさせてあげられたら、みんなもっと違う人生を歩んでたかもしれない」と悔やんでいる。「経験重視」とかおとぎ話を語ってるお嬢様に、ウチの母はそれを子どもに与えることができなくてずっと苦しんできたんだと、真顔で詰め寄りたい気分だ。
「実家が太い」人たちには、こんな話は伝わらないかもしれない。わかってもらうためにいちいち説明が必要で、それを説明すること自体に僕は途方もない虚しさを覚える。
待ってろよカーチャン、オレが「貧乏育ちでも大成できる」ってことを見せてやるからな。
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