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10/27 【大人になるとは、偽ることなのか。】

およそ3年、僕は壊れたランドクルーザープラドを所有していた。
過ちを犯し、エンジンがお釈迦になってしまったプラドは、もう直る見込みが無いと言われていた。途方に暮れた。憧れを抱いて、勢いで買ったプラドだったが、こんなに乗れずに長い時間を過ごすことになるとは思ってもいなかった。

もう廃車だな、、なんて思っていたら、そんなお釈迦プラドを見てくれた母親の知り合いの整備屋がウチなら直せるかもと声をかけてくれて、望みを託して預けること3ヶ月。エンジンがかかりましたと連絡があった時は本当に嬉しかった。

整備屋さんに車を取りに行く。諸々書類を記入していると、「ちょうど一ヶ月後、誕生日なんですね。」と言われ、また自分が歳をとるという現実を目の当たりにした。

歳をとることに、あまり喜びを感じることもなくなってきた。というか、歳を重ねているという実感が皆無だからなのかもしれない。年齢という、ただの数字の積み重ねに喜怒哀楽を感じなくなっている。

いつからだろうか。あれだけ大人になりたいと切望していた少年時代から、その切望通り、数字だけは大人になっている。だけど、いま大人になったのかと言われると、切望していた少年時代から内側はそこまで変わっていない気もする。肌のシミや、体力の衰えなんかは確かに徐々に感じるんだけど、それは大人になっているんではなく、ただの老化だ。

大人になるとは、果たして何を指すのだろうか。大人の基準とはなんだろう。幾つになっても成長していない部分もあって、だんだんと老化していく仮面を被った、清らかな心を持った少年が、なぜかまだ自分の大半を占めている。

大人になるとは、偽ることを覚え、体現することなんじゃ無いだろうか。多分、みんなが少年少女のような心持ちがまだ自分の中にあって、いや、これはずっと消えることなく中心に存在していると思っている。それが、段々と"大人”になっていくと、認められない場面が増えていく。偽りの自分を演じなければならないことが、多くなっていく。

ここにめちゃくちゃ歯痒さを感じる。もちろん、好き勝手少年のように振る舞っていては良くないこともちょっと分かる。だが、今は大人になりたいと逆に思えない。むしろ、少年になりたいと切望している。無いものねだりとはよく言ったもので、あの大人を切望した少年時代の自分が今の自分を知ったら、卒倒するに違いない。

偽り、仮面をかぶって社交ダンスを無理に踊らされているような気分だ。大人わ。じゃあ、好き勝手やればいいじゃんって?やってみたらいいよ。気が付いたら、一人でダンスを踊っていて、手を取り合う人が近くにいなくなってるから。孤独耐性が付いていないと、よっぽどやめておいた方がいい。

またここから30代に突入して、大人というものに違和感を抱きながら、それでも理想の大人像を明確にしてそこに近づけるように、這いつくばってやっていくしかない気がしている。

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