死にたいほどに擦り切れても
作ることは、自分に手を差し伸べるということ。すなわち、自分を理解し肯定することだとわかった。
そしてその過程を、作品を通して共有することで、他者が自身を肯定するヒントを与えることが可能だと思う。
作品自体の言葉が、受け手を肯定するのでなくても良い。それが生まれてくる過程での自分への肯定、これを共有すること。そのために、今の僕には音楽があり、写真があり、言葉があるのだと分かると、僕にとって表現と呼ばれるものは、ある意味そこで完結した目的だと言える。
作ることが、自分の何を救うのか。
僕が扱う作品の中では、自分を曝け出すことが許される。自分の中にある喜び、愛、葛藤、さまざまな性別やパーソナリティの複雑性ひとつひとつと向き合い、ひとつひとつを肯定するスペースが与えられていると思う。
僕が知っているこの世の中では、取り繕い、狭くまっすぐで扱いやすいことを求められる。説明しやすいものが好まれる。だけど、人はそんなにシンプルではない。淡々と生きているけど、ものすごい数の要素がその人を形作っている。
言葉が詰まってうまく伝えられない愛。人に見せるようなものじゃないと硬く塞いだ葛藤、隠した傷。誰かに決めつけられた自分と、そうでない部分に生まれる細く深い断絶。私が皆の言う私なら、これは誰なんだ。その人の中で暗く沈んで底から見つめている何かがある。それがなぜ抑圧されているのか?
そこから自由になるために作品がある。ある芸術のシステムに僕は自分のひと掬いを織り込む。それが形を成し目の前に現れたとき、まず僕はそれを喜び、その中にある自分を喜ぶ。この時、芸術としての価値はぶっちゃけどうでもよい。そしてそれが誰かに伝わることがあれば、あなたにも同じだけの何かが眠っているし、それは肯定すべきことである、と伝えたい。
人目に触れることで傷つく結果を招くことももちろんある。だけど、他者との関係の中でできた傷は、その中で癒すこともできる。そして、死にたいほどに擦り切れても、いつもどこかで私を暖かく受け入れてくれる人がいる、ということを、身をもって知りながら今日まで生きてこれた。だからその一片を作品に託したいと思う。