やりたいことファーストで生きていきたい
集中力が欲しいと思うとき、本当に欲しているのは余暇の時間だと感じる。
終わらない宿題、終わらないレポート、終わらない仕事……。
あらゆる”終わらないこと”に向き合っているとき、何度も「もっと集中力があればなあ」とぼやいてきた。
もっと集中力があれば、
宿題が終わって、友達を遊べたはずなのに。
レポートが終わって、飲み会に行けたかもしれないのに。
仕事が終わって、映画を観に行けたのに。
何度も”あるはずだった余暇の時間”を思い浮かべ、やるべきことを終わらせられない自分の集中力のなさを嘆いてきた。
今ではだらだらと終わらせられないのは作業効率の悪いことだと理解しているが、”ずっと何かを続けること=えらい”と思っていた時期もあった。
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小学生のとき、私は個人経営の小さな教室でピアノを習っていた。その教室では、家での練習時間を記録するシートがあり、レッスンのたびに練習時間を記録し提出していた。
私は練習が嫌いだったので、よく「練習、嫌だ~」と言いながらピアノの椅子にかじりついていたり、ピアノの鍵盤を適当に打ち鳴らしたりしていた。そのため、一日何時間もピアノの前に座っていることもあり、課題曲を仕上げるための練習時間は膨大なものとなった。
毎週、だらだらしている時間も含めた練習時間を申告していたことには何の罪悪感も覚えていなかった。なぜなら、練習にかかった時間は嘘ではないからだ。
そんな私をさらに調子に乗らせたのは、ある年の発表会のことだった。その発表会では”優秀賞”と”努力賞”というものがあり、優秀賞はその年の発表会で最も素晴らしい演奏をした人に、努力賞はその年の発表会までに最も努力した人に贈られることになっていた。
なんと、私は”努力賞”に選ばれてしまった。
おそらくピアノの先生は”長い時間練習している=夢中になって何時間も練習した”とか”完璧なレベルになるまで練習した”と想定して努力賞を贈ったのだと思う。
そうであれば、たしかに”努力賞”を贈るに値するだろう。しかし実際はだらだらと練習した結果、長い時間練習することになっただけだった。
しかし、当時の私にとっては親や友達が見に来ているなかで賞をもらえた誇りでしかなかった。
そのため、努力賞は”長い時間、練習するのって良いことなんだ”と思い込むきっかけとなった。
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それから、いろんな場面で”何時間もやったよアピール活動”をしていた。
塾の先生に「毎日10時間くらい勉強してるよ」と伝えたり、矯正器具をつける時間を記録するシートで長時間つけていたことを報告したり……。
思惑通り、それを聞いて大人は褒めてくれた。
塾の先生は「それだけ勉強しているならこれからぐっと点数伸びるな!」という言葉をかけてくれたし、矯正歯科の先生も「ちゃんと器具を付けてくれてるので、早く終わると思います」と言ってくれた。
以降、より一層ひとつのことに時間をかけて取り組むようになった。中学、高校時代は特に勉強漬けだった。それ以外の時間は無駄とすら感じていた。
その結果、大学に入学するまで当時流行っていたバラエティもドラマも一切見ない青春時代を送ることになった。
昨日放送されたドラマの話は一切ついていけず半笑いで相槌を打つばかりで、芸能人の名前はひとりも言えず「好きな芸能人は?」と聞かれて「……EXILE?」とグループ名を答えるような有様だった。
それでも長時間の勉強をやめなかったのは、目先の娯楽に気を取られず、遠い目標に向かっていることが正しいと思っていたからだ。
しかし勉強ばかりの日々は窮屈で、心のどこかでいつも「勉強の事を忘れられる時間がほしい」という気持ちを持っていた。
ずっと勉強なんかしたいわけなかった。周りの友人のように、たまにはドラマやバラエティを見て感想を語り合ってみたかった。休息の時間、余暇が欲しかった。
しかし当時は、勉強以外の時間を取ることは積み重ねた努力をゼロにすると等しいと感じてしまい、集中して勉強して休憩するときは休憩する、というスタイルをとれずにいた。たまにできた空白の時間ですら、単語帳を眺める時間にすぐに変換してしまっていた。
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勉強漬けだった甲斐あって、高校も大学も望む進学先には進めた。
それでも、ふと当時の流行っていたものに触れるたびに”もっと流行りに乗れたはずの学生時代の自分”や”青春を謳歌していた自分”を想像して大切なものを失ったと感じずにはいられなくなる。
学生時代に流行っていたアニメやドラマを掘り起こして観るたびに、当時の友達と魅力を語り合えたらどんなに楽しかっただろう、と何度も後悔してしまう。
私が集中力を欲しているのは、学生時代に友人と「花男、最高だよね~」「ニノってかっこいいよね」と話す機会を失ったように、今しかできないことを取りこぼしたくない気持ちがあるからだと思う。
今しかできないことが何かは明確にわかるものではない。でも、当時のように「やるべきこと」ばかりで「やりたいこと」を無視するような生き方はしたくない。
長い間「やるべき」を優先し続けていたため、休憩時間にゲームやドラマやマンガの時間を取ると「意味ある?」とか「無駄じゃない?」と言ってくる昔の自分がいる。
でも、意味なんて後付けでいくらでもできる。
何事も無駄なんてなくて、いつか繋がってくるものだ。
「やるべき」ばかりやらなくても、きっと人生はなんとかなる。それなら、やりたいことファーストで生きていきたい。
今欲しいのは、集中力でも余暇でもなく「やりたい」を無視せず、ちゃんと叶えてあげられる自分だ。
このnoteは、オンラインコミュニティコルクラボの「#週刊お題note」の企画で書いたものです。
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