不自由な服
大人になった今でも、浴衣や和装から連想されるのは田舎のおばあちゃんのこと。
自分とは違う "日常" を過ごしていたおばあちゃんは、血のつながりという圧倒的な近さがあるのに、どこか遠い存在だった。遠いからこそ、知らない世界を見せてくれた。
浴衣って、幼い頃から特別な日にしか着ないものだったからかな。折に触れて思い返すと、不思議な記憶がよみがえってくる。
それは断片的で、決して重大ではなくて。だけど今も確かに私の中に根付いている価値観だ。
小さい頃着ていた、黄色い浴衣が大好きだった。
夏祭りの時に着せて貰うのが恒例で、それを私に着せてくれていたのがおばあちゃん。
夏祭りとは言っても、家のほんの近くでやっているような近所の小さなお祭りで、夏の夜に屋台が出るやつ。
大人になった今なら別になんでもない普通の地元のお祭りだったと分かるけれど、当時の私にとっては、日常から少し離れる特別な瞬間だった。
よくよく考えてみれば、ヨーヨー風船もラムネのしゅわしゅわも嫌いな子どもだったのに、夏祭りが良い思い出として記憶の中に仕舞われているのはちょっと不思議だけど。それもあの黄色い浴衣と、金魚みたいにふわふわな へこ帯が、かわいくて大好きだったからなのかも知れない。
それくらい鮮明に記憶している、大好きだった浴衣だ。
浴衣が普段着る洋服とはどうしても違う存在だったもうひとつの理由に、自分では着られないものだったというのがある。
中学生くらいで着付けを習うまで、浴衣は「着せて貰うもの」だった。
洋服なら小学生になる頃には当たり前に自分で選び、簡単に着られるのに、あまりにも勝手が違う。それに比べるとずいぶんと大きくなるまで、いつもおばあちゃんに着せて貰っていた。
しかも、大きくなった自分に着付けを教えてくれたのもまたおばあちゃんだったわけで。どちらにしろ浴衣とおばあちゃんの記憶が密接に結び付いていることも納得が行く。
田舎で農業を営んでいたおばあちゃんは、自分とは何かが少し違う存在だった。
普段は全然オシャレなんてしないのに、晴れの日にはしゃんとした着物を着ているのが格好良かったりしたけど、ハレとケの概念が強く残っているのも田舎ならではだったのかもしれない。
家系図的には二親等って近いけど、生活の単位は別だから、そういう小さな発見が多くて。まだ幼くて世界が狭かった私に、人生で初めて自分の暮らす環境とは違う世界を見せてくれた人だったのだ。
多分、おばあちゃんも浴衣も全部ひっくるめて、「普段」とは遠い、異質な存在だったのだと思う。
普段着ないけれど好きな服、家族だけれど親とは違う大人。
そういう、近くて遠い存在との触れ合いの中で、それまで当たり前に自分の中にあった世界が広がって、子どもは大人に近づいてゆくのだろうな。
浴衣を手にした自分の中によみがえるのは、確かに今の自分を形作った大切な思い出なのに いちばんの核になることは無かった、そんな部分の記憶たち。
つい先日、近所のモールに入っている呉服屋で浴衣の叩き売りセールをやっていた。
定価一万円くらいの浴衣が、100円。帯も100円。合わせて200円。
新品で品も良いのにその値段なら と気になって店内を覗けば、おそらく同じような理由で足を踏み入れたのであろう同年代の子たちがひしめいている。
その店が赤字覚悟のセールをやっていたのもまさにそれが狙いで、和装に馴染みのない若い世代を客層に取り込みたいのだろう。
だけどその戦略が上手く行きそうだとは、お世辞にも言い難い気がする。
だって、現代社会における浴衣って、正直もう生きた服ではない。
昔教わった着付けも、動画でも見なければ思い出せそうにないし、第一、普段から着たいとはあまり思えない機能性だ。
私は今回、インターン先で夏にやる子供のためのお祭りの時に着ようかと考えたから買ったけど、そういう機会が年々減っているのも確かで。いくら物も良くてシンプルで長く使えると言っても、200円でも、着る機会がないのでは本末転倒だし。
そんな不自由な服を買いたい人は少ない。そう考えると、今日あの店にいた若い子たちが今後あの店の顧客として機能する確率は、限りなくゼロに近そうだ。
こうやって、浴衣は、和装は、少しづつ死んでゆくのかな。
そんな風に思いながら店を後にしつつも、何ともやるせない感情が胸に広がるのは、私たちの生きる世界が狭められていくかのような感覚に陥るから。
今自分に必要なものだけが、社会を形成している訳ではない。
それを知る機会が減ってゆく気がして、少し怖い。
ニーズに応じて価格が定まる構造の社会で、現実的なトレンドとはかけ離れ、ある意味究極のファッションへと変貌をとげようとしている和装のスタイルは、それこそ異質なものだ。
長く着られるように丁寧に作られた着物の背景を知れば 多少高くともそれは適正価格なのに、安くで大量生産されるTシャツの方がニーズを捉えているから、その着物はTシャツよりも安価に提供しないと買ってもらえない。
だからと言って簡単に手を伸ばせるほどに安くで取引されれば、その分その人の中での価値は下がって、せっかく長く使えるものでも簡単に捨てられてしまうようになってしまうだろう。
必要かどうかで物の価値を量る私たちは、たまにしか着ないから安いもので良いなんて思ってしまうけど。
おばあちゃんが晴れの日に出す着物は、たまにしか着ないからこそ高くて良いものだったな。
特別な日の装いとは何なのか考えるとき、その記憶が私の中に根付いていることに気が付いた。
変わっていく社会で、私たちは何に価値を見出すんだろう?
大好きだったあの黄色い浴衣。
普段着ない服にワクワクした気持ちは、きっとものすごく大事な原体験だ。
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