魔法使い -キリトリ
今日だったからよかったのかもしれない と思うことはたまにある。
今日だったからあれに挑戦したんだろうとか
今日だったからあの人に会えたんだろうとか
自分が何かをした時、自分の力だけじゃない何かがそれを助けてくれたようなそんな時に思う。
ある夏の暑い日で、時間に追われる必要のない日だった。
そんな日にはちゃんと「そんな日の出来事」として片付くような出来事ばかり起こるものだ。
あてもなく自転車を走らせ、サラリーマンの帰宅とは逆行した。
スーツのシワがその人の言いたいことを代弁している人もいれば、日没によって世界が自分のものになったと言わんばかりの勢いでOLに声をかける人もいた。
そんな街を冷静に楽しむ余裕があるほどに気持ちは平坦だった。
自然と通ったことのない道を選んで進むことを自分に課していた。
それでたどり着いた。来たことのない空間に。
そこは茶色いメニューに茶色い食べ物と茶色い飲み物がオレンジ色のメニューに書かれた茶色い空間だった。
指2本分くらいしか口を開かずに喋る店主は、丸く細い声をしている。
心ゆくままに河原で拾ってきたような小石を等間隔に本棚に並べる後ろ姿を横目に、いつもより遅いスピードで茶色い飲み物を喉へと吸い込む。
時間を止めることができる人が存在するとは思いもしなかった。
わたしを圧倒するものや人はいつも突風のようにわたしを巻き込んでゆく。
そして目が回るようにぐるぐるとしながら心の急所をついてくる。
はずだった。
暖炉に焚きつけた小さな火が部屋全体を暖めるようにじんわりと漂う排他的な空気。
しかも火を見ていると圧倒されていることに気づかない。
そんなふうにしてこの空間に入ってから時間が止まった。
店主と会話を交わした頃には入店して30分ほど経っていた。
ぼそっと話すその口元を読みながら進む会話は、シルバーカーを押しながら歩く老婦人のような速度だ。
それでもいらいらすることなく、ちょうどいいと感じさせられ、わたしも気づけばシルバーカーの横を同じ歩幅で歩いていた。
「誰に聞いたんすか。」その言葉から始まった会話は、いつしか店主が誰にも教えたくないというほどお気に入りの店をいくつも紹介してくれるところまで行き着いた。
驚いたことは、互いにひとりになりたい人なのかなと敬遠し合ってあの30分が経ったということだった。
わたしが時間を止めることのできる魔法使いに出会ってしまったと感じていたのに、もしかしたらそれはわたしも魔法のスパイスの一種のだったということか。
言われてみれば確かに、今日はひとりになりたい気分だった。
だから知らない道を通り、知らない場所へやってきたのだ。
そして時間の止まる空間を見つけた。
だがそれは、今日だったから時間の止まる空間だったのかもしれない。
ある場面のその一瞬を構成するのは、
あの人とあの人の気分と
その人とその人の気分と
あの人が好きなものと好きな色と好きな音楽と
その人の仕事の進み具合とお腹の空き具合と
ありとあらゆるものなわけで。
ただその中には紛れもなく自分夜分の気分も含まれるということ。
つまり、今日だったからよかったのかもしれない。