懐かしいという行為 -キリトリ
乾き、香ばしく、静寂と歓声が交互に耳から首筋へと抜けるよく晴れた日。
土色の鳩が歩道を歩き、車道を走る食品メーカーのトラックが鳩を追い抜く時、わたしの手元には懐かしいバナナジュースがあった。
ふくらはぎの始まりと表すであろう部分までの丈のスポーツ用靴下をローファーと合わせて履くのがこの街の女学生の流行なのだろうか。
展望台によくある高架を投入して覗く双眼鏡で景色を眺めるような心地と重なるそれは、慣れた町に滞在することによって自分だけが得られる特別感だった。
人の中の数割は、今日と似通った要素を持つ日の記憶を五感で蘇らせる行為を形容詞として懐かしいと呼んでいる。
その行為とともに現在の目線に立ち、記憶を思い起こす最中に引出された感情が、その懐かしさを色分類してくれる。
わたしの場合は彩度の低い緑色だった。
目的地はなく、予定もない休日、何をするわけでもなく川を眺め、川原の岩に座るために行く場所があった。
時にはコーヒー片手に、文庫本片手に、ある日は手ぶらで。
寒すぎたり暑すぎたりすると自然と選択肢には上らぬ場所であり、それを除いた季節に1回から2回、とその場所に行く頻度も高くなかった。
考え事が解決するようなパワーを持つ何かがあるわけでもなければ、とびきり座り心地の良い岩というわけでもない。
川の透明度がすこぶる高いとか、いろんな人が集うような川原とかでもない。
ただその場所は変化することなくあって、そこに行こうと思いついた時にイメージされる印象を裏切らず、暇とも思ってないその時間を過ごすには気持ちが良かった。
その場所を通った、慣れた町に滞在している今日。
可も不可もなくという一言で表されるこの場所について、様々な言葉を使ってどうにか絶妙なニュアンスを伝えたい、とこれほどまで表現しているということが既にその場所への思いを示していた。
ピンクや水色のように発色が良くなくても、言い換えると、その色が混ぜて作らずとも存在する非人工的な色であればあるほど、日常的な懐かしさだと言いたい。
決してイレギュラーな日でない、スケジュール帳に書くまでもない日常をピックアップできる脳内は、誰もが持っているはずなのだが、その脳内環境を整備できる条件を常に装備できている人は少ない。
つまり、彩度の低い緑色の懐かしさは、日常を留め、足跡がつくほど踏みしめながら、至って普通の時間を過ごしたから今記憶から蘇ってくることができた。
脳内環境の整備道具が散乱し、どこに行ってしまったかわからなくならぬよう丁寧に日々を過ごし、特別でないことを無碍に扱わず収納すべき所に整頓してゆく。
当たり前なことほど忘れがちなのに当たり前なことほど自分を構成している大事な要素。
きっと今日見た女学生や土色の鳩はバナナジュースの味とともに、いつかの今日と似通った要素を持つ日に記憶から蘇るのだろう。
さて、その時の懐かしさは何色に分類されようか。