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魚 -キリトリ

アナログとデジタルについて考えてみた。
デジタルの世界は便利だけど責任が薄れる。
アナログの世界は手間がかかるが、ひとつずつの行動に意味があるように思える。
つまり、うまく使えばふたつは最強。
でももしどちらかを切り捨てるとなるとどちらを取るのだろうか、と。

前提を挟むとしたら、今となっては当たり前すぎるほどのテーマであることを承知の上であるということ。
だからこそ、ほつれた糸がシャツの袖元で踊るのと同じくらい日常のありふれた所にこんな考えが頭をめぐるきっかけは転がっている。
そのシャツのほつれを放ったらかしにしておくことはできるのだが、糸切りバサミを裁縫道具入れから取り出す手間を労力だと思わなかった日があったから、こんなことを書いてみようと思ったのだ。

本題に戻ると、今の感覚ではわたしはアナログを選びたい”気分”だ。


ある日、使い捨てカメラを買った。
理由はなんでもない日常を大切にしたいとふと思い立ったことだ。
ここでの大切にしたいという言葉は、通り過ぎる景色に立ち止まりたいという風に置き換えられる。
iPhoneという便利な道具でカメラ機能を起動させて写真を撮ることが当たり前になり、わたしにとってはその動作がわざわざ「立ち止まる」ことに匹敵しなくなった。
だから使い捨てカメラという媒体を購入し写真を撮ることがiPhoneを使うことでは足りない要素を補い、わたしは「立ち止まる」ことができた。
シャッターを巻く親指、フラッシュを焚くためにその上下する突起、撮影枚数の制限、現像にかかる日数….
これらは全て魅力的な手間。
そこまでは予想できていた。
現像した写真をカメラ屋に取りに行った時のことだ。
部屋の中は暗いからフラッシュを必ず焚かないといけないよ
優しく白濁した目がわたしに話しかけたこと、これがとても新鮮な恥ずかしさをわたしに与えた。

つまり撮った写真全てを自分よりも先に見られたということ。
ボツにしたい写真、自信のない写真、自分の満足に足りない写真が他人の目にさらされることがデジタル時代には存在しない。
SNSにポストする写真は自分がこう見られたいとか、こう見てほしいとか、ある程度操作した上で他人の目に触れる。
また、撮った写真をすぐに確認できることで他人にお世話になることがない。
当たり前のことが当たり前でないだけで不思議な感覚へと陥る。
自分の普段の生活がただ自分にとっての普段でしかないことに気付かされる。
こんなにデジタルな世界で生きているんだなと店主のその一言でサーカスを見た後のような気分になる。
デジタル、アナログ、この言葉に対するイメージが体験として得られた瞬間だった。
デジタルの波に乗ってプカプカと浮いている日々に、アナログという魚跳ねる驚きは、とても心地いい遊泳の記録で、もっとその魚を観察したくなった。
アナログとデジタルは過去と未来ではなく、もはやどちらとも現在で、昼と夜のように、たまに夜更かしをするから楽しいことがあると言った感覚に近い。
気分で夜更かしをしてみたら、次はどんな種類の魚と出会えるのだろう。

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